中途半端なギター

中途半端さの残るギターがある。車に置きっぱなしにして練習用にしようかなというようなギター。しかし、たいてい長持ちしたことがない。なんとなくギターが気の毒になって、手放してしまうからである。他方、中途半端さがないギターというものは本来ないのかもしれないが、自分の中では中途半端ではなく、これを長く弾き続けたいと思うギターは長く手元に残り続ける。その違いは何か?自分なりに考えてみた。完璧と天才は真逆だという言葉に出会ったことがある。完璧が機械のように作りあげられたものとすれば、天才はきっと自由なのかもしれない。中途半端さを感じるギターはある意味、完璧なのかもしれない。機械で加工されて量産され、なにか同じ音色に感じてしまうもの。他方で手元に残る楽器は最後は人が楽器を楽器として検品したり最終調整をして世に出されたもので、それは何年も色あせないのでは?とも思える。人間も、色あせずに自分らしく生きるのが一番ではないかと思う。機械のように完璧な感じに育てようとする環境が数多くあり、大人になってからも同じだ。例えばスマホも便利に扱えればよいが、情報に従い続けるだけでは、機械の手足と一緒だ。手元に残るギターには何らかの感動があるのだ。