ラリー船長がゴスペルに出会うまでの道のりを紹介します。
(前書)弾き語りでゴスペルのみのライブを行った。その際に僕はゴスペルを歌って本当に嬉しかった。これまで演奏し拍手をもらいもっともっと自分はどこまでいけるのか、そのような、どこまで追いかけてもずっと闇が続くだけのような感じが全くなかった。クリスチャンとなって始めて教会で賛美歌の伴奏でギターを弾いた時「ゴスペルは神様をほめたたえるものなんだよ」と教えてくれる人がいた。演奏が終わったあとお客さんが拍手というものはない。賛美歌の伴奏を続けていくうちに、目の前にいる人にではなく、神に向けて賛美するのがゴスペルなのだと理解することができた。そう思える今に感謝し、ゴスペルに出会うまでのエピソードをもとに物語をここに少しづつ書いていこうと思う。このひとときに心から感謝をこめて。
大学を卒業後、僕は東京で活動したいと思っていた。東京に引っ越した。東京のミュージシャンといくつかバンドを組んだがうまくいかず、弾き語りで活路を見出そうと池袋の路上に出来たばかりの「フリーバード」という曲を歌いに行った。自転車で立ち止まった池袋の高校生が僕に十条にある自由造というライブハウスを紹介してくれた。ライブに定期的に出演させていただき、多くの共演者、お客さんとの出会いがあった。マスターが音楽に熱意のある方で、心ある助言をライブのたびにいただいた。約3年ほど東京で活動したが、その当時のベスト盤のような気持ちでオリジナル曲を詰め込んだ「旅人の唄」というCDを作り発売記念ライブを行った。東京では出演者もライブハウスも競争という色が、仙台よりもとても強いと体感していた。出演をお休みすると、もう他のミュージシャンで盛り上がっているスピードが速い感じがした。仙台に帰ってマイペースに音楽を創作したいとの思いになった。仙台に帰ってからアコースティックが似合う景色も多く、生まれ育った街で唄うことが喜びになった。多くの出会いがあり、多くのイベントに出演させていただく機会をいただいた。感謝である。
とある朝、机で今から何か作業をしようと思ったときに鉢植えのバラが無造作に置かれていたら”今から作業するのになんでこんなところに置くんだ”とバラを床に置きたくなる気持ちになるのだと思う。ところが何かのメッセージカードが添えられて「就職おめでとう」とか「誕生日おめでとう」とか書かれていたら、きっとすぐに花を床には置かないだろう。僕なら手を止めて、今からする作業のスペースは作りながらも机の真ん中、あるいは目立つところ、日当たりのよい窓辺に花を置いて感謝し眺めながら作業したくなると思う。僕は仙台に帰ってから東京と仙台を行き来していた。活動の拠点がまだどちらともつかずだった時期だったからだ。東京のビジネスホテルで時々オンボロのドライヤーと一緒に引き出しの中に置いてある聖書を開くこともあったが、最初に聖書を読んだときは正直ハードルが高いと思った。新約聖書のマタイの福音書は、イエスキリストの系図から始まる。最初の数ページで読むのをやめ、あるいは有名な箇所に飛んで読みたいところだけ読んで、内容をまったく理解することができなかった。そこには冒頭に書いたように花に添えられたメッセージが語られているのに、僕は理解しようとせず世の中でよいとされるものを追いかけた。音楽を愛する方々との出会いの旅が続いた。ここから、旅が始まる。
僕は仙台でイベントの主催をして大コケしてしまったことがあった。会場費の支払いを終え楽屋でがっくり肩を落としていた。共演者の音楽仲間達が帰ったあと、学生時代にバイクで旅をしたことをふいに思い出した。その旅行中に僕はアメリカンバイクで北海道に行ったのだが台風とともに旅をしてしまい、大雨の中をバイクで走っていた。あまりにやりきれない気持ちになり、その当時まだクリスチャンではなかったが、神様に「なんなんだ!この天気は!?」と大声で叫び、あらん限りのやるせない思いを吠えまくった。するとバイクのガソリンがガソリンスタンドもないような林道でガス欠になり、僕は大雨の中バイクを押して歩くことになった。その道の途中、熊が急に出てきたらどうしようとおびえたり、たどり着いた国民休暇村は働いている人が休暇のお休みの日だったり、神様に叫び吠えたことを詫びながら歩いていた。やっとガソリンスタンドを見つけ給油しようとしたら所持金が猛烈に減っていた。これはまずいと1,000円だけ給油すると目の前に日帰り温泉サウナの看板がたまたまあった。全身ずぶぬれだったので中に入ることにした。新聞をみると当面は台風が続くと新聞にある。僕は北海道旅行を断念して仙台に帰ろうと思った。だが、どこで遣ったか落としたかして、財布の所持金がわずかしかない。帰りのフェリーの片道切符はバイクを含めていくらだったか?日帰り温泉サウナを出たらフェリー乗り場に行ってみよう。そう思いながらドライヤーで服や財布を乾かしていくと、1000円札が雨でぴったり貼りつきわずかにしか見えていなかったのがドライヤーで乾かすと1枚2枚3枚・・と、数えてみたら30枚ほど救出されるミラクルが起きた。
見事なミラクルに誰もいない脱衣場で僕は万歳三唱をしたあと、スタンドで払いすぎてなかったか?との思いがよぎったが早い者勝ちでは?とバイクに飛び乗った。フェリー乗り場に行くと台風の影響で人がごった返し、リアルな現実が目の前にあった。いま目の前のフェリーが最後で、その後は欠航。目の前のフェリーは満席でキャンセル待ち。目の前のフェリーは出航を見合わせており、いつ出航するか急に欠航となるかは未定。さて、どうする?僕はキャンセル待ちにかけてみることにした。数時間待っても欠航になるかもしれないし、キャンセル待ちがなく満席のまま出航になるかもしれない。その後どうするか。当面は欠航となるのであれば、今晩の宿をどうするか。するとアナウンスがなった。僕の整理番号だった。一人だけキャンセルが出たとのことだったが「急いで乗ってください」と言われた。僕がフェリーに乗ると待っていたかのようにフェリーは台風の中を出航した。翌朝、海の見える朝風呂を浴びたとき、空は見事な快晴だった。きっと気持ちいいのだろうなと想像していたが、仙台到着時にフェリーのタラップが開く前にエンジンを鳴らし待っていた。タラップが開くと同時に日差しが目を開けた時のように降り注ぎ、道が目の前に広がった。僕は「神様、ありがとうございます!」と心の中で叫び吠えた。この北海道の旅を走馬灯のように思い出したのは、大コケしたイベントのあとの楽屋だ。僕の目の前には会場費の支払いを終えたばかりの出来たてほかほかの領収書が目の前にあった。ここでもう音楽をやめてしまおうか・・と押し入れに閉じこもりたくなるような額ではあったが、北海道からの帰りの朝の陽ざしを思い出したら、希望をもって活動を続けるべきだと心から思った。
ブログ「Song Writter」は実在するラリー船長バンドのメンバーのことを書いたが、書いている間、メンバーにこの内容でいいか?と確認しながら書いていた。このブログ「Gospel Song」では実在する人であっても、もう亡くなっていたり、今は連絡の取れる手段のない人もいる。なので、すこし抽象的になるが、僕がその人をイメージしてニックネーム(敬称略)をつけて、書いていこうと思う。これは誰をモデルにしているのか?わかる人にはわかると思うし、わからない人には物語の登場人物を読むように読み進めていただきたいと思う。最初に僕が20代のころに出会った印象深い人といえば、「ライオン」だ。僕が東京から仙台に帰ってきたばかりの時に出会ったばかりのライオンは、ライブ会場に行くと弦を張り替えるのではなく髪を金髪に染めていた。その日のライブ、彼は金髪で演奏するイメージだったのだろう。初対面の彼は染める髪の量が少ないからか、髪を染めるのに悪戦苦闘していた。僕は彼の前座で唄い、彼のライブの番になると、彼は風のように自由な歌を歌っていた。それから僕らは意気投合し連絡先を交換した。彼は遠くに住んでいたが「仙台でライブやりたいんだけど、来週どうかな?」なんてよく電話がかかってきた。また、ライオンから呼ばれたイベントには、予定がつくようであれば遠くても高速バスや列車で行って前座で歌わせてもらった。楽屋のないところも多く、ここで着替えてと人の家の階段で着替えたらその家の子供に誰?と聞かれたこともあった。いつも何か楽しいことが起こるんじゃないか?とワクワクさせてくれるような人だった。ライオンといろいろなところに旅をしたりライブを行った。僕は「どうしていつもそんなに楽しそうなんですか?」と僕は彼に聞いた。彼は「なんでも面白がることだよ」と答えた。ライオンの知り合いも楽しく個性的な人がたくさんいた。12月の冬の夜、彼は突然亡くなった。ライオンが残した音楽、好きな歌がたくさんある。彼のバンドメンバーが彼の歌を届けようと彼の残した歌を演奏しイベントを続けている。僕は彼が亡くなってからも、彼の生前親しかった仲間たちと今も「初めまして」と出会い続けている。それは不思議なことでもあり、ともに別な時間に、それぞれに出会ったライオンに出会うことでもあったりする。ライオンと共に道のない草原を走るような気分になる夜がたくさんあった。風のようにいろいろなところに旅をした。ライオンはいつも各駅停車で旅をしていた。彼は優しいライオンだった。あの笑顔を思い出すたび、楽しくなる。
次に紹介するのは、「スターマン」だ。彼はサックスプレイヤーだ。スターマンはステージに立つとまるで華やかなスターとなった。僕より身長がでかく、アジア風の服がとても似合っていた。彼のサックスはどっからその音が出ているのだろう?と思うほどステージでは爆発していた。言いようもない爆発と孤独感。サックスは歌詞で語られるより時に多弁ではないか?と思うことがある。僕は彼の親友となり、よくつるんでいた。真夜中に待ち合わせて街や公園で語らい、明け方の吉野家で味噌汁一杯をコーヒー代わりに夜を明かした。空いてるのが吉野家だけの街で語らった時の夜のことだ。彼と出会って、記憶に残っている夜はたくさんあるが、特に強烈な思い出はスターマンの家で語らっている時「買い物に行ってくる」と彼が言って突然いなくなり、買い物から帰ってくると彼はずぶ濡れとなっていた。「どうしたのか?」と聞くと「川を泳いできた」と言う。なぜ川を泳いだのか聞くと、「満月が川面に映って綺麗で、そこまで泳げば月がつかまえられると思ったからだ」と彼は答えた。僕はこの晩のことを忘れられない。思い出しながらギターを弾いて歌っているとメロディが浮かんだ来た。まだ歌詞はなかったが、満月に向かって泳ぐ彼の姿を思い浮かべていると、その曲のメロディはとてもせつなくロマンチックな響きになっていくように感じていた。スターマンはいまどこにいるのかわからない。彼が遠く旅立つ前に、僕は彼にレコーディングでサックスを吹いてほしいと頼んだ。彼はレコーディングスタジオに自転車でやってきた。旅立ちの前日で「今日はいそがしくて少しの時間しかない」と言って「夜想曲」のサックスを吹いてくれた。録音は一回で終わってそれがCDになった。スタジオに彼がいたのはわずか5分。彼とは、いつかまた出会う気がする。僕が旅先で小腹がすいて焼き鳥を買ったときとかに実は焼いていたのが彼で「なんだよ、おい!」なんて感じで会えそうな気がいつもしている。
次に紹介するのは「ローリー」だ。ローリーは学生時代に旅先で知り合った。ローリーの家のおばあさんに駅前で唄うバンドメンバー全員が気に入られ、おばあさんの商店で子供たちを集めてコンサートをさせてもらったことがある。おばあさんの商店に旅で寄るたび、とても喜んでくれた。インスタントコーヒーの瓶に入れた酢にひたしたワカメをお土産に「春になるといつもこれを作るのよね!もってがい(もってきなさい)!」と優しく手渡してくれた。ローリーはおばあさんの家族だが、おばあさんのところに来るギターをかついだ珍客を不思議そうに見ていた。しかし、あいさつや会話をするように自然になっていった。バイクで一人旅をしているとき、立ち寄ると「物置が開いてるから今晩は泊まっていかないか?」とローリーが声をかけてくれた。お言葉に甘えて物置に行くと、そこは物置ではなく、海外の船来品がたくさんあり、ビリヤード台まであってさながら「大人の隠れ家」というような場所だった。ローリーは「俺、昔は船医で船に乗ってたの。いま船を降りて商店をしてるけど、あんたを見ていて自由って本当にいいなと思ったんだ。いつかまた船に乗りたい」と、夜中に酒を酌み交わし語らっている時に彼は語った。それからかなり年数がたったあと、夜中に見知らぬ番号から電話があった。電話に出ると、ものすごい海風の音である。「いま、船に乗って仕事してる。夢が叶ってね、あなたのCDを持ってきたんだが、海で毎晩かけているよ。聴こえますか?」と。誰だかすぐにわかった。「ええ、聴こえますよ」と僕は泣いた。感動をなんて言葉にしていいかわからなかった。それからローリーとは会っていない。商店でのコンサートより大きな地元の祭りで僕のライブを企画してくれたこともあった。お手伝いをする子供たちにお祭りのお手伝いを説明するローリーの笑顔はまさに「船長」そのものだった。
次に紹介するのは「王子さま」だ。王子さまは駐車場で遊んでいた。「ねえ、どこ行くの~?」と黒い服を着て歩いている僕に話しかけてきた。大きなジープの向こうから、子供用のおもちゃのジープに乗って現れた。「ここで遊んでると危なくないかい?」と聞くと王子さまは言った。「そうだね、広いところで遊んだほうが安全だね」。僕が帰ろうとすると「ねえ、どこ行くの~?」と僕にまた聞いてくる。「あのお山の先のほうに」と僕が答えると、王子さまは「カラスと一緒に帰るの?」と聞いてくる。「カラスはどこに帰るのかな、僕はわからないなぁ」と答えると、王子さまは「空に道はないからね、カラスがどこにいったか僕も検討がつかないや」と答えた。王子さまは幼稚園に入る前ぐらいのような年齢のように感じた。話していて子供でもあり、僕がどきっとするような質問を投げかけてくることもあり、僕は足を止めて彼としばらく話していた。自分も子供のころに、幼稚園に行くのをぐずって家の周りで遊んでいたら心配してくれた大人と話した記憶を思い出していた。親は見知らぬ大人は信頼しないようにと子供の安全を考え僕に教えてくれていたが、僕は親以外の大人と話すことがその時、新鮮でしょうがなかった。王子さまはお腹がすいたのか「僕そろそろおうちに帰るよ」と言った。僕は王子さまに「では僕もお山の先の方に帰るね」と話すと、王子さまはこう言った。「さよならカラスさん、遊びに来てくれてありがとう」と。僕はそう言えば黒い服だった。手を振りながら、子供の心は自由だと思った。子供のころ絵本を読んで絵本の世界にいる気分になったことがある。その子供は駐車場でカラスとよく心の中で話していたのかもしれない。もう今は大人になって僕を忘れているだろう。王子さまは、あのあとどんな人生を歩んだのだろう。もしかしたら、今は本物のジープに乗っているのだろうか。
かつてツアー先で、非常に人気のあるミュージシャンがいるからぜひ見に行かないかと共演者から勧められ、知らないミュージシャンのライブで超満員の会場に行ったことがある。「みんな、準備はOKかーい!?」とのボーカルの声と同時に、素晴らしいグルーブのリズムが鳴り、会場がひとつになるようなライブがそこでは繰り広げられていた。僕も心から楽しんで、勧めてくれた共演者と共に打ち上げに参加することになったのだが、みんなが楽しく語らって、そのまま居酒屋で大半が寝ているような状態であったが居酒屋は何も文句を言わず、大広間はキャンプ場のようになって朝を迎えた。人気のあるミュージシャンは「バンビ」。とても気さくでみんなに好かれる兄貴分のような性格で、居酒屋から帰る時に「いつか共演しようぜ~」と言ってくれた。それから数十年後、その街でライブをすることになったとき、共演者にバンビの名があった。僕はとても嬉しかった。もちろん数十年後のことなのでバンビは僕のことを覚えてはいなかったが、彼は数十年の間にソロミュージシャンとしても活動し、たくさんの曲を書いてきたとのことであった。会うのが2回目だったが、なんだか同窓会でひさびさに会う親友のような気持ちになった。最初に見たライブ以来、思い出すたびに彼のCDを聴いていたからである。音楽は時間を超越するなあとも思った。そのツアー先には数十年前にライブしたときに見に来てくれたお客さんが見に来てくれた。会うのが2回目でその間に数十年は経っているのに、昨日会ったような気分になってしまう。音楽を続けてこれたことに感謝だなと、思うことがよくある。
いろいろなことに憧れていた。こうだったらいい、こうあったらいいと心がいつも何かを追いかけるようにして生きてきた。特に好きな音楽においてはそれが強く僕の中にあらわれた。とあるときから体の中に異変を感じていた。僕には心臓の病があり、気づかずにいたがライブがあるたび人前で演奏する直前に頭のてっぺんから冷汗が滝のように出てくる感覚を覚えていた。それを僕は何か奇怪な感じがしていたので「ゴースト」のしわざだと思っていたが、脈が不安定になり気持ちがどんどん汗から焦り、不安に変わるような感覚を覚えていた。検査を受け、心臓の病だということがわかった。手術をするには年齢的なことも考えなくてはならず、受けなければこの先も薬を飲み続けねばならないとのことがあり、手術を受けることにした。その手術は成功し、僕は「ゴースト」にお別れを告げることができた。すると不思議なことにそれまでこうだったらいい、こうあったらいいと思い込んでいたものが、何かが違うのではないか?との感覚を覚えるようになった。ロックミュージシャンを目指す人はロックミュージシャンのように無理になる必要はないのではないか。こうすればかっこよくなると誰かのマネをして、もっと誰かのマネがうまく出来る人があらわれたら意味のないものになる。僕の中に魅力のあるものは何か?それが大事なのではないか。その思いは今も続いている。水を探していたら足元に泉があるようなものだった。心臓の鼓動が安定し、何かを巻き込もう、かきみだそうとするようなものにはまるで魅力を感じなくなっていった。そうした力を強く感じた時にどうするか?シンプルに、立ち止まることを覚えた。それまでは、立ち止まらず、乗り越えること、乗り越えなくてはならないとしか考えなかった。手術の成功を祈り、叶えられたことに感謝すると心に安らぎを覚えた。それまで僕が追いかけ、そのまま追いかけていたら滅びに向かっていたのではないか?そのことに気がつくことのできる機会となった。
静けさの中にいた。夜明けに体力づくりのため歩き始めると、普段は渋滞の車で大賑わいの国道も飛び立つ鳥しかいなかったりする。目覚める前に通り過ぎていた朝日を見ながら散歩すると、自分は休んでいるが地球はずっと動いている。かつては太陽や月や地球に感謝していたが、歩き始める前に聖書を読むようになり、人間にはとても叶えることのできない大いなる存在があることがよくわかった。僕は書店で買うことのできる新改訳の聖書の旧約聖書から読み始めたが、僕にとってはその方がわかりやすかったのだと振り返ると思う。荒野を歩き始めるように手術後に夜明けの散歩が日課になっていった。ワーシップという音楽も聴くようになっていった。日本にはあまり入ってきておらず、CDショップには滅多にいかなくなった。Elavation Worship、united pursuits、Hillsong Worshipを聴き始めたが、本当に素晴らしかった。特に夜明けを見ながら聴くとき、両手を広げて空に万歳をしたくなるような気持ちに何度もなった。手術後に心臓は安定するようになった。そして、徐々に生活の中でも冷汗が出たり不安や焦りのようなものが、今まで何だったんだろう?というぐらいなくなっていった。感謝を唄にしたいと思った。だんだん、自分のオリジナル曲を書く目的が夢を追いかけるためというものではなくなる感覚を覚えていった。
弾き語りでゴスペルのみのライブを行う前に、クリスチャンの集う教会で賛美歌の奏楽を担当しギターを弾かせていただく機会をいただいていた。これまでは、もっともっと自分はどこまでいけるのか、どこまで追いかけてもずっと闇が続くだけのような感じがしていたのだが、教会で賛美歌の伴奏でギターを弾いた時に「ゴスペルは神様をほめたたえるものなんだよ」と教えてくれる人がいた。いつものライブのように、演奏が終わったあとお客さんが拍手するようなものではない。賛美歌の伴奏を続けていくうちに、自分が主役ではなく、むしろ神に向けて賛美するのだということが、心からわかった。賛美歌の奏楽をしているときに、自分が目立とう、前に出よう、神様に僕が目立って真っ先に前に出ていこうと思うと、たいてい空回りすることばかりだった。心から祈り、賛美を捧げることが今日は出来たなぁ!と思ったとき、賛美歌をともに唄っていたご年配の方が僕のところにやってきてこう言った。「あなたのギター、ずいぶん弾きこまれているようだけど、どうして?」「僕はオリジナル曲を作って歌ってきたんですけど、弾いてるうちにいっぱい傷がつきました」「すごくいい音でね、驚いたの。これからもゴスペル楽しみにしてるね」・・僕はとても嬉しかった。ライブハウスでの奮い立つ喜びとは全く違う感動があった。
僕は思い出していた。大学に合格した時、父は泣いていた。僕は合格発表を父と見に行っていたのだ。当時の父は45歳頃だから僕より5つ年下ということになる。父はよほど嬉しかったのだろう。子供のころから、父とはとても心の距離があったのだが、受かって当然という状況とは真逆で、受かりっこないというところに受験番号が書いてあったのだった。父が運転する車で大学に見に行くときは「ドライブに行くか」というような感じだった。帰りは父が「信じられない」と何度も何度も連呼していた。父は外では饒舌だったが家ではとても無口だった。その父が喜んで喜びをどう伝えていいかわからないようだった。あまり嬉しくないキャバレーのようなところに連れていかれ、お祝いに演歌を何曲か唄ってくれた。その父とのことを少しづつ書いていこうと思う。
子供のころ、父とキャッチボールをよくしていた。父は手加減しようとはしなかった。父が近隣の草野球大会で試合に出てピッチャーをすることになり、座るように合図があると僕は弾丸のような父の球を受けるキャッチャーをした。球は速く、ボールがグローブに入ると大きな音が鳴り、手が痛んだ。球をとるたびに腕が後ろに飛ばされるような強さだった。10歳の僕にはきつかったが、手加減を頼んでも、熱中すると聞こえなくなり、わき腹や肩に当たって痛がっても球が飛んできた。父の育て方だったのだろうか。それとも子供相手という感覚がなかったのか。今となってはわからない。それでも反面教師のようになって、父に速い球を投げ返したいと僕も壁に向かってボール投げをひたすら続けていた。父のことがわからなかった。
父の何かに熱中すると集中しすぎてしまうところは、遺伝したのかもしれない。父は釣りと将棋が大好きだった。幼いころに釣りについていき、夜釣りをしていた時のことだった。僕の釣り竿が大きくしなり、何かが釣れた。最初は海中の何かにひっかけてしまったのではないかと思うほど、釣り糸が切れそうな勢いだった。しかし、何か大きな力で釣り糸が右に左に動くのでやはり何か釣れたという実感はあった。父はゆっくり釣り糸を巻いていくように僕に言った。初めて魚を釣り上げる僕の心は本当にわくわくしていた。釣り上げると、太い紐のようなものがぶらんと釣り針からぶらさがっている。なんだ、、と落胆しかけているとその紐がぐわんぐわんと揺れ始めた。「うわーー!ウミヘビだーーー!」と僕は瞬間的に吠えた。父に「どうしよう、どうしよう」と言って助けを求めたが父は釣竿を「おろせ、おろせ」と言った。僕は混乱して「おろせ」の意味が、「この場で調理しろ」という意味に聞こえ「どうしたらいいかわからない!」と釣竿を持ったまま走り出した。釣竿をもったまま全速で走ったのでウミヘビと思っていたものが、振り子のようになり僕の首筋にピタンピタンと当たるのである。父はパニくる僕に「おろせ!おろせ!」と吠えた。ついに「噛まれる!」と釣竿を放り投げ、街灯の下で父と釣り上げたウミヘビをのぞきこむと、それはなんとハモだった。しかし父は言った。「これはウミヘビだから海に返そう」。あとから再度、図鑑を調べたらハモだとわかった。それを知って父に伝えると背中で笑っていた。あのときは、ウミヘビかハモかわからないから、海に返したのだろう。陸に上げられたハモは僕の首筋にペタペタ当たり、吠えられ、海に帰った。ハモも驚きだっただろう。
少年の頃、我が家では父母・祖父母から「ジャンプの購入は禁止」との勧告が僕に出ていた。ジャンプと言っても、飛ぶ跳ねるの方ではなく週刊少年ジャンプのことである。あまりに僕が勉強をしなかったがゆえの、見かねた末の勧告であった。初めのうちは立ち読みで我慢できていたのだが、当時は面白い漫画が目白押しの時代でもあった。キン肉マン、キャプテン翼、北斗の拳など、これが同じジャンプに!?というような僕にとってはジャンプ黄金時代でもあり、特にキン肉マンに登場するジェロニモというキャラクターがたまらなく好きで、人間なのに超人と共に闘って勝利をもぎとる場面では、立ち読み中に号泣してしまい、勧告を破って永久保存版にしたいとジャンプを購入してしまった。その1冊は隠していたのだが、次の週も次の週も立ち読みではじっくり読めないとの衝動にかられ、ジャンプを購入。寝る前にこっそり読んで、古紙回収のため積んである新聞が物置にあり、ちょうどタイミングよく前に読んでまだ捨てずにあったジャンプがあったので買ったものを少しづつ積み重ねていた。ところがある日、見つかった。ジャンプが古くなかったからである。当然、家族会議が開かれ、「なぜジャンプを買ったのか、勉強はどうしたんだ」などの質問を受け、僕は正座して座っていた。最後に「お父さんの意見を聞かせてください」と父が意見を求められた。そこで父は信じられない一言を発した。「俺も読んでいた」。場は凍り付き、そのあと全員が大爆笑した。いま思い返せば古紙回収のごみを捨てていたのは父である。その後、僕には「ジャンプを買ってもいいから勉強ちゃんとするように」とのゆるやかな注意に変更された。僕はジャンプを読み終える都度、父の寝床に置いて感謝した。
時はぐんと進むが大学を卒業して僕は東京に出ることにした。東京で仕事をしながら音楽をすることに夢を見ていたからである。引っ越しは知り合いからワゴンを借りて行ったが、父が東京までの運転をしてくれた。その時、父は不思議なことを語った。「いま高速道路を運転しているが、車がないと想定したら我々は空中を座った姿で移動している。それって面白いと思わないか?」僕はインド哲学みたいだなと思った。なんとなく大学のインド哲学の授業で、ここに机はあるが机はないと考えてみようというような授業を聞いた気がする。父の語ったことについて、さほど面白いとは感じなかった自分ではあるが、これから父の運転する車で移動するということはもう当面はないんだろうと思っていたので、そう語りかけられたことが高速道路を走っている場面とともに記憶に明確に残っている。本当は「おまえがいなくなるとさびしいな」というような言葉が聞きたかったのかもしれない。そう思っていても父は元来の照れ屋だったのかもしれないし、空中浮遊のことに熱中していたのかもしれない。東京に到着し荷物をすべておろし終えると「じゃあな、元気でな」と父は去った。僕は最初に箱からステレオを出して、おおたか静流さんのCDを初めての一人暮らしの部屋で聞いた。段ボールだらけの空き部屋に「曼殊沙華」が響いた。
それから約3年たって東京での活動も充実し「旅人の唄」というCDを作った。仙台でライブすることとなり実家に泊まって、父にCDを出したことを報告した。昼ごはん中に「旅人の唄」を父とともに聴きながら、僕はその晩のライブのセットリストのことやライブの準備物のことなどを考えながらご飯を食べていた。父が「旅人の唄」を聴いていた途中で急にCDを止めた。何か機嫌を損ねるような曲があったのか?と思ったら、父が窓を開けて耳を澄ましている。遠くから何か行商のトラックの音が聞こえてくる。父は重い口を開いて言った。「このCDは全国デビューなのか?」と。僕は「いや、自主製作CDだから、レコード店には並ばないCDだよ」と答えた。父は「聴け!」と言った。遠くから行商のトラックの音が近づいてくる。「おまえの声は、あっちのトラックから流れる歌のようなしゃべりのようなのが合ってるんじゃないか?あっちの路線で売り出せば、行商のトラックで全国デビューできると思うぞ!」と。この時、僕の心の中ではアンガーマネジメントという講義が開講していたのではないかと思う。「そうだね」それがその時、最大できる応答であったのだが、いま思えば父は素直な人だったのかもしれない。たまにその行商のトラックが通ると「僕があれをやったらいけるかもしれない」と時々思うことがある。それはこうだ。「わらびーもちー、おいしいーよ」あの独特の気の抜けたような口調と歌いまわしは、なぜか今は、「俺の出番の場がある!」と思わせる。しかしCDを出したばかりだったこともあり、あの時は「そうだね」と回答するのが精一杯だった。
父は歌がうまかった。子供のころに近所の公園で大規模なカラオケ大会があり、バーベキューや露店が並ぶとのことで家族で遊びに行ったことがあった。父は申し込みをしていなかったが「飛び入り参加枠を設けましたのでエントリーください」とのアナウンスがあり、父が申し込みに行った。父は遊びのような感覚で名前が呼ばれて舞台にのぼっていったのだが、それまであまり盛り上がっていなかったカラオケ大会は父が歌いだすと一変した。それまで出演していた人たちが驚いてステージの袖に集まり、主催があろうことか舞台に飛び入りして父の隣で踊りだし会場がとても盛り上がった。まだその地には引っ越してきたばかりで父のことは誰も知らないような状況でだ。「あんた、歌うまいねえ!」と父が拍手で見送られながら父がステージから降りてきた。歌ってすごいなあと心の中で思いながら焼き鳥を食べていると、父の名が呼ばれ「本日の特別賞」と父が表彰され、アンコールでまた父が歌った。特別賞として海やプールで遊べる空気で膨らませて遊べるボートが贈呈された。その夜そのボートを息で膨らませながら、僕の夢も膨らんだ。いつかあんなふうに歌えたらいいなあ、と。残念ながら歌のうまさは遺伝せずだったが、人が歌によって喜んで共に楽しむ、ということを初めて知る場面となった。
僕がバイクを初めて買ったのは19歳の頃だった。バイクをいっぱい持っている友人がいて、乗らなくなったバイクを譲ってもらった。そのバイクの名はHONDAのLAカスタムという古いアメリカンバイクだった。僕は譲られて間もなく、家に持ち帰り家の前で「ドルンドルン」という音を響かせてバイクを止め、サングラスを外しトム・クルーズになったような気持ちでバイクを惚れ惚れと見ていた。すると、ジャージを着て長靴を履いた無精ひげの父が、家からバイクのエンジン音を聞いて外に出てきた。「これどうしたんだ?」と聞かれ「バイトで貯めて買ったんだよ」と僕が答えると「乗せてみぃ」と父が言う。僕は「いや、中型免許がないとこれ250ccだから!」と断ろうとすると「俺の時は免許とると大型まで普通免許で運転できるシステムだったんだぞ」と父が言う。僕は半身半疑だったのだが、父は僕の手から鍵とヘルメットをとるとバイクにまたがった。僕はアメリカンバイクに乗るならと革ジャンでの初乗りで気取っていたが、父がジャージと長靴と無精ひげでバイクに乗ると、なんか父の方が、完璧にバイクと一体化していた。「おらー!」と父が言って長靴でキックをして走り出すと「大ベテランの八百屋の人」というような、いぶし銀のオーラが漂っていた。町内を一周まわり終えた父が僕の前で止まると、なんとなくバイクの所有者の僕の方がバイクを借りている人のような雰囲気が漂った。それからとある旅先で、父に勝てるほどバイクが似合う男になるには?!ということを考え、ものすごく猛暑の中の国道を走っている時に、ふとイージーライダーの映画を思い出し、僕はさして筋肉ムキムキでもないのに上半身裸になって国道を走ってみた。「これで親父を超えるバイク乗りに俺はなったぜ!」と100メートルぐらい進んだ信号待ちで、あろうことか立ちごけしてしまい、車で信号待ちしているドライバーに指さしで大笑いされながら抜かれていった。その時、上半身裸の立ちごけにより擦り傷程度ではあったが「これからは服を着てバイクに乗ろう、ここは日本だし」ということを学んだ。僕はワイルドになりたかったが、父のジャージと長靴と無精ひげのワイルドさには勝てなかった。でもHONDAのLAは乗りたくなることがたまにある。父との思い出のバイクだからだ。
未成年の頃、僕は何度も家出した。家にいることがたまらなくいやだったからである。反抗期によくありがちな、ことではあるが。僕は家出するときに野宿の荷物と当時はカセットのウォークマンであったがお気に入りの曲ばかりセレクトしたマイベスト盤を持ち歩いていた。レッドウォーリアーズの「ゴールデンデイズ」からそのカセットは始まった。自転車で漕ぎ出すときにゴールデンデイズから始まるのである。そろそろ加速するぞという2曲目になるとウィラードの「ライトニングスカーレット」となる。現実逃避(結局は家に帰ることになることをわかりつつ)になるがこの曲がかかるともう家に帰らない!というような気持になりどんどん家から離れて加速する。3曲目は曲タイトルはわからないがボディドリーがずっとローランドウーマン(温麺ではない)と何回もボディドリーが吠える曲。ラジオのエアーチェックで録音した曲。4曲目は尾崎豊の「スクランブリングロックンロール」、5曲目は佐野元春の「サムデイ」。ここでA面が終わり、いったん休憩する。B面の1曲目は浜田省吾の「二人の夏」、2曲目で加速するラフィンノーズの「R&R DESIRE」。3曲目はへこたれないように聞くクラッシュの「ロンドンコーリング」。4曲目はルースターズの「ロージー」、5曲目はブルーハーツの「未来は僕らの手の中」でカセットは終わる。カセットの電池も切れて路上で息を切らしていると、家族が車で僕を追いかけてきた、というようなことがたくさんある。自転車を投げて走って逃げたこともある。その時、運転していたのは今の自分よりもっと若いころの父だった。
高校3年生の時、僕は進路のことなんてちっとも考えていなかった。どうにかなると楽観していたわけではなく、もうどうにもならないような落第ぎりぎりの状況だったというのもある。父が自分に対して何も言わないことに不満を抱いていた時期もある。わざと父が怒ったり呆れるようなことをして父から男の熱意のようなものをぶつけてほしいと思っていた時期があった。それも叶わずのれんに腕押しというような日々が続いた。どんな内容だったか、父に不満をぶつけるような手紙を書いたことがある。もうすでに数年は口をきいていないような状況だったが、返事なんてこないと思っていたが、父からの短い手紙が朝に置いてあったことをおぼえている。父は高校の時に家が火事になり大学に本当は行きたかったが高卒で就職した。その後、大学に行かなかったことで後輩に気を遣うなどの苦労があったと僕がまだ幼少の頃から言っていた。その手紙には父からの変わらないメッセージが短く書いてあった。「息子よ、大学に行け」。その手紙を読んだ後、僕は奮起した。父がいなければ僕は働いてバイクを買ったら仕事をやめて旅にでるというようなくらいしか未来を考えられなかったと思う。父を追い抜きたいという思いより、父が体験できなかった大学に行ってみたいとの気持ちが強くなった。その時点ではとうてい無理な憧れでしかなかったが、自発的に教科書を開くのがその手紙を読んだ後が人生初だった。いつもデビッドボウイのジギースターダストを聞きながら、大学に進んだら音楽がやりたいと思っていた。受験勉強をするにはあまりに遅咲きのスタートだった。
父との思い出にここまでお付き合いいただいて、感謝する。僕も友人のブログなどで会ったことのない友人の父のお話などを読んで友人がどんなふうに育ったのか興味深く読んだこともあった。父とはどんな存在なのか。人によっては身近な存在でもあり、ものすごく遠い存在であったり、いま看病や介護をしているという方もいたり、もはや他界してたまに思いだすという方もいたり、人それぞれさまざまだ。僕の父はすでに他界しているが、父が倒れて救急車で運ばれた時、本当にどうしていいかわからなかった。誰か他の人がどうしたらいいかわからないというようなときには、ここに連絡して、あそこに相談がいいよとすぐに答えが浮かぶのだが、自分の父となると、どうしていいかすぐに頭をかかえ考えあぐねていた。真夜中の病院の大きな駐車場にたどり着き、僕は「祈る」ということをそれまでしたことがなかったが「父が倒れました。どうしていいかわからないので教えてください」と祈った。すると心に「あなたの父に聞いてみなさい」という声が聞こえた気がした。父の面会が許されて父に会い、父のかぼそく消えてなくなりそうな「生きたい」という声を聞いた。僕はそれから数年後に聖書を読んだ。読み進めていくと、あの時に祈りの中で心に聞こえてきたのは、ここに書いてある神だったのだ、と自然に思えるようになった。父の「生きたい」との声にどう答えるか。僕は目の前にいる父にあの時こう言った。
「元気になって、将棋をまたやろう」
父が元気になって将棋をともにやることは、困難な状況にあった。医師の説明では緊急手術が必要で手術をしても助かる見込みはとても低いとのことだった。翌朝に手術をすることになり、かつて大きく見えた父にはものすごい数のパッチがつながれ、ベッドに父は横たわり虫の息だった。大きな声で僕の名を呼ぶ声がした。父は麻酔がきいて、幻覚を見ていた。あまりに大声を発するため病院のスタッフが大人数がとりかこむと人影がこわいのか、さらに大きな声で僕の名を呼んだ。父の手を握りなだめると、天井にある火災報知機を指さし「あれから何かが見てるんだ」と言った。医師は冷静だった。「麻酔がきいて、幻覚を一時的に見る人もいるんです」と静かに教えてくれた。父の手術は1度では終わらず2度、3度目が数日に渡って続いた。3度目の手術の前の晩に医師が「あとはあなたのお父様の気力の問題です。気力が持てば3度目の手術でなんとかなるが、気力が落ちて体力もとなった時はあきらめるしかない状況でしょう」と言った。父の病室に行くと父は医師が何を言ったか聞きたがった。僕はそのまま伝えた。父は虫の息であったが「気力か・・・」と言った。僕は本当は元気になってからやろうと思っていたがこれが最後かもしれないと思い、父に提案した。
「将棋、やらないか?」
父は瀕死の猛虎のような表情で、僕に言った。
「よし、やろう」
最初に父が打ったのは「飛車」の前の歩の前進だった。僕は泣きそうになった。父の手が枯れ木にように細く、将棋の駒を置く指細くなって震えながら駒を置いていたからだ。しかし、父の気力が保てるように、僕は将棋の盤面をにらみながら眠い目をこするふりをして涙をふき、「角」の斜め前の歩を前進させた。将棋では父に一度も勝ったことがなかった。将棋の有段者が父と将棋を打った時も有段者が「勝てなかった」とぼやいたのを聞いている。僕は将棋はめっぽう弱いのだが、この勝負では父が苦戦する将棋ができた方が3度目の手術に立ち向かうにあたって役立つような気がしていた。父も絶不調の中での将棋のため次の手を考えるのに時間がものすごくかかっている。その間に僕は、それまで考えたこともなかったが、先の先の手を読み、父の前に立ちはだかれるようにと攻防を考えた。本気の勝負ではあったが「もうやめよう」と父が言う心の準備はしていたが、父は途中で何度も何度も休みながら、消灯時間の間際で、静かに僕に言った。
「王手」
3度目の手術のあと、医師に結果を聞くと「なんとか成功したが、麻酔がきいて長い熟睡に入った」とのことだった。手術の時の様子を聞くと、なぜか父は手術前に「感無量です。今日を迎えられてよかった」と言っていたそうだ。麻酔が聞いて熟睡している父のところにいくと、3度目の手術はこれまでにないほどの大きな手術だったことがよくわかった。透析を回しながらの手術で、父の腕や肩にも血の跡が残っていた。「よくがんばったなぁ」と父の手を握った。ボクシングの試合が終わった後、セコンドが選手の血を拭くようにアルコール綿で父の腕や肩の血を拭きながら思った。なんでも父親と本音で話せるようになるのが一番だ。手術はもしかしたらダメではないかとも思っていたが、これまでの人生で父と本音で話せなかった自分がいたことに気がついた。これからその時間が許されたのだ。父と話そう。ありったけ話を聞こう。父にどれだけ時間が許されているかはわからないが、父が目の前にいる。
そこには新しい朝があった。
髭が伸びるのが先か髪が伸びるのが先か。時々、床屋に行くと思い出すことがある。父が入院していた時、異常に髭が伸びるのが速いと思った。髪は月に1回でいいが髭は毎日剃らないと数日で虎のようになる。床屋に行った時、0.8mmぐらいで刈り上げをしてもらい、髭とどっちが速く伸びるか競争してみると一目瞭然だ。髪は数日そのままだが髭はどんどん生えてくる。病院では好きで生やしている人なら別だが、剃ることが出来る人はいいが剃ることが自分で難しい人は家族がするとなる。毎日いけるならいいが、毎日ではない場合、次に行った時に「虎」と対峙することになる。それは虎退治ではなく虎対峙というような感じで髭をとなるわけだが電動カミソリはジョイーンジョイーンと高らかな音が鳴り、相部屋などでは非常に気をつかうものである。病院は生活の場ではない、というのはそのとおりだと思うが、長らく入院となったときに生活の面で家族負担がとても大きいように思う。そこを無報酬または介助のスタッフを置いて応援している病院もあろうかと思うが、手が回らないのが現実なのではないかとどこの病院に行っても感じることがある。その日のうちにやらねばとのことがたくさんある中でも髭はぐんぐん伸びていく。家族の見舞いが難しい方はなおのことだ。例えば、そこだけ見て何もしてないんだな、この病院はこの施設はというような見方をするというのはどうなのかと考えることが父の入院時に髭を剃りながらよく思うことだった。父は髭がぐんぐん伸びて、見舞いに行きあくびをしていると本当に虎のようだった。
今日7月24日は、奴隷船の船長から牧師となった、ジョン・ニュートン(1725〜1807)氏の誕生日だ。ニュートン氏は、賛美歌「アメイジング・グレイス」の作者として知られる。僕もクリスチャンになる前から「アメイジング・グレイス」は耳にしたことがあったが、1779年に発表された「アメイジング・グレイス」は、今日も新鮮なメロディのように歌い継がれている。この歌は、ニュートン氏の劇的な体験から生まれている。ニュートン氏は貿易船の船長の息子としてロンドンで生まれた。母は熱心なクリスチャンだった。ニュートン氏が7歳になる前に母は病死。ニュートン氏は11歳で父と共に船に乗るようになり、奴隷貿易に携わるようになった。その頃のニュートン氏は反抗的な少年時代だったそうである。しかし、ニュートン氏が22歳の時、激しい嵐が船を襲い、転覆の危機にあった船中でニュートン氏は神の慈悲を求めて必死に祈った。船は奇跡的に嵐を免れ、この経験がニュートン氏の悔い改めの大きなきっかけとなった。その後、ニュートン氏は奴隷貿易をやめ、神学を学び始め、1764年、39歳で英国国教会の牧師になった。ニュートン氏は、黒人たちをまるで家畜のように扱う過去の生き方と決別し、その罪を悔い改め、志をともにする人々とともに奴隷貿易の廃止運動を活発に推進した。1807年、ついに英国が奴隷貿易を禁止。その同年82歳で地上での生涯に幕を閉じる。この話を僕はクリスチャンになってから知るが、今はこの賛美歌が心からの希望の歌のように感じている。
アメイジング・グレイス(驚くばかりの)
聖歌229番(新聖歌233番)
驚くばかりの 恵みなりき
この身の汚れを 知れるわれに
恵みはわが身の 恐れを消し
任する心を 起(おこ)させたり
危険をもわなをも 避け得たるは
恵みの御業と 言うほかなし
御国に着く朝 いよよ高く
恵みの御神を たたえまつらん
医師の話によると父の理解力はかなりなくなっているとのことであったが、亡くなる前の数か月は嵐の前の静けさのように、穏やかな表情をしていることが続いていた。今でも思い出すのは、父の脳トレのような気分で僕の誕生日の日に「今日は何の日でしょう?」と尋ねると、父は静かに言った。「今日は俺の大切な人の誕生日だ」と。僕はその言葉を父から聞けた。それに対してその時は何も言えなかった。父とふたりきりの時間だったのだが、神が僕のためその時間を用意してくださったのだ、と今は心から思う。あの手術の日から、何度も何度も将棋をした。ついに最後まで一回も勝つことは出来なかったが、「将棋をやろう」と言うと父は必ず「よし、やろう」と答えた。そして、勝つといつも嬉しそうだった。爪を切り、みかんをむき、テレビの脇に将棋の駒と盤があった。その部屋で父は亡くなった。69歳だった。
自分の生まれ育った子供のころの景色は、うろおぼえでも覚えている景色がある。しかし、うろ覚えで覚えていることも難しいほどの子供のころの記憶は、自分だけで思い出そうとしても絶対に無理なことがある。僕には大切な友人がいて、ともに長く音楽活動をしてきたバンドメンバーは、僕がおぼえていて友人がすっかり忘れているようなこともあれば、友人がおぼえていて僕がすっかり忘れているようなこともあったりする。父は僕の知らないところでたくさん出会いがあったのではないかと思う。人生の最後のラストの一周で父は思い切り僕の名を呼んだ。僕はこれからどんな大変なことがあるのだろうと思いながらも父が何を思い一日一日を生きているのか、子供のころには見ることが出来なかった父の表情を何度も見る機会があった。その都度、ただ「今」があった。ゆえに父を見送った日、それはリアルに「今」という瞬間になった。大切な人たちが父と同じ年齢あるいは父の年齢を超える年齢になっていく。その中に、今、大きな壁に立ち向かっている人たちがいる。息子が僕と同じ年齢ぐらいなんだと、にこやかに微笑んで話す方もいる。「息子には話せない。でもずっと心配してきたんだ。息子の成長を祈っている」とのお話を聞いたりすると、自分の父はどう思っていたのだろうか?と時々なつかしく思うことがある。新型コロナウィルス感染症が数年前から始まり、本当は会いたいのに「無理して故郷に帰ってくるな」と親からそう言われているが本当は会いたいと話す方もいる。僕には何が出来るんだろう?そんな思いからカナリアという唄が生まれたりもした。それでも僕はカナリアのように自由に空を飛べたとしても会えない人や見れない空もたくさんあるのだと思った。家出ばかりしていた少年時代の思い出の場面がある。父は僕のことを可愛がってくれたことはあったのだろうか?そんなことを考えながら写真を整理していた時に見つけた、一枚の写真がある。
この写真では記憶にもないころ、頭の上にミカンを乗せている自分が父の膝の上に乗っている。父が亡くなるまでに話した会話のひとつひとつが、時々とても大切な思い出になっていることに気がつくことがある。父は歩けなくなったあと、リハビリで自転車に挑戦しようとした、ということを聞いた。売店の買い物は健康のため我慢していた、ということも聞いた。それは父が亡くなってから知ったことだ。
父が他界して数年がたち、僕は昨年これまでに歌ったことのないようなとても大きな会場で、まったく僕を知らない人たちの前で唄わせてもらう機会をいただいた。ステージに上がり、ただ一曲だけであったが、僕は”アメイジンググレイス”を唄った。唄う前、父との出会いに感謝して、天に向かって感謝した。
ゴスペルを心から唄った。父に将棋では「王手」をすることは出来なかった。でも、あらんかぎりの声で僕は唄った。父が赤ん坊の頭の上にミカンを置き、頭の上にミカンを乗せていた赤ん坊が、父にミカンをむいて手渡す景色が目に浮かんだ。
素直になることができず、それが出来ずにいた時間は、あまりにとても長かった。
神はすべてをご存じで、時間を許してくださったのだ。
最終回となる今、ここにいる、ここまで、最後まで読んでくださったみなさん、本当にありがとうございました。みなさんの人生に豊かな祝福がありますように。
2023年7月28日 ラリー船長
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