ラリー船長が贈る、カメムシを題材としたほんのちょっとハートフルな物語をお届けします。
カメムシ・ライダーというお話を前回、このHPで書かせていただいた。自分としてはとても楽しく書き進めていったのだが、子供のころに読書感想文とか書かせられて、本を読むのが苦痛だったこともあったが、面白い本に当たると自分も物語を書いてみたいと思って書き始めたことを思い出した。たいていノートの最初のページまで書いたら満足してしまい、何年もあとにそのノートを開いて恥ずかしくなる、といったような経験ばかりだったが。最初に書いたのは「さすらいの旅」という話だった気がするが、どんな話だったか覚えていない。小学生にしてはずいぶん渋いタイトルだったように思う。僕はおじいちゃん子で、おじいちゃんとばかりいたからだろうか。今回は前回のカメムシ・ライダーの続編ではなく、趣向を変えてちょっとハートフルなお話を書こうと思っている。途中で終了したらごめんなさいだが、前回のカメムシライダーと同様に#00から始まり#30を目指して書き進めていこうと思う。お時間のある方は是非。新しくスタートする物語のタイトルは「カメムシ・トリップ」。お楽しみに!
カメムシは闇の中にいた。静かな月の夜に、カメムシは折り畳み傘の中から顔を出した。カメムシが折り畳み傘から出ると、わず空いたカーテンの隙間に窓ガラスがあり、カメムシは音もなく飛び立つとガラス面にぴたりと貼りついた。真夜中、暖房のないその部屋は結露の水しずくでガラスが壁画アートのように、とても美しかった。道端のほのかな街灯の灯りが水しずくに照らされ、カメムシには水しずくすべてが親から聞いていた伝説の果実・蜜柑のようにも見えた。カメムシは水しずくの一つに口を伸ばし、静かに生まれて初めての水を口にした。それは全身にエネルギーが巡るようにそのカメムシを元気にした。真っ暗な部屋を喜びで飛び回りたくなり、水を飲んだ後に部屋の中を飛んでみると、人間の男の子が寝ていた。親からは聞いていたが、ハルキという名の男の子で、この部屋に暮らすカメムシは代々ハルキとともに生活し、ハルキの成長を見守ってきたと言う。高校生になったばかりのハルキ。カメムシはどんな子なのか寝顔を見てみようと近づいたが怖くて近づけなかった。折り畳み傘の中にそっと戻り、傘のビニールのふわふわの中で暖をとった。外では雪が降り始めた。ハルキの寝息がゆっくり時を刻んでいくのだった。
カメムシはいつもハルキの"影"だった。ハルキの折り畳み傘の持ち手の部分のプラスチックの中にいるのが居心地がよかった。そして、いつも揺られて過ごしていた。ハルキがいつも持ち歩くリュックサックの中に折り畳み傘がしまってあったからである。カメムシは雨の日以外、極めて安全だった。しかし、雨の日はハルキが傘を使うので、ハルキの手のあたたかさを全身で感じる喜びがあったが、万が一の時は見つかり大変なことになるのではとの危機感を感じていた。しかし、最初から狙い通りというわけではなかったが、雨の日は雨の匂いがあるというか、カメムシの臭いが晴れの日より分散されているようで、ハルキはまったく気がつかず傘をさして学校に通っていた。カメムシは徐々にそのサイクルに慣れていき、授業中は安全な時間だとのことがわかった。朝から夕方まで、リュックサックが同じ場所にあるからである。朝の授業開始を伝える鐘の音とともに夕方の時間まで、カメムシは折り畳み傘の中から抜け出し、昼休みに生徒が食べた弁当の残りやお菓子の残りが落ちている床を歩き、バイキングのような楽しい食事にありつけていた。しかし、夕方の掃除の時間までリュックに帰らないと、恐ろしい掃除機に吸い込まれてしまうとのことも覚えて、なかなかスリリングで楽しい日々を過ごしているのだった。
ドサッとリュックが地面に置かれた。そのままリュックは微動だにしなかった。カメムシはいつも部屋に戻るタイミングより早くリュックが置かれ、なおかつ寒さを感じ、折り畳み傘の中から外の様子を見ることにした。リュックのチャックの隙間からおそるおそる外を見ると、ハルキが男子生徒数名に囲まれ、小突かれていた。カメムシは人間同士にもいじめがあるというのを知っていた。カメムシにもいじめがあり、いじめがいやで何代か前のカメムシが逃走し、いまのハルキの部屋に住むようになったと聞いたことがある。ハルキは最初、小突かれるだけだったが何人かに襟をつかまれ顔を叩かれたり、地面に横たわり足で頭を踏まれていた。カメムシは何もできなかった。やがて雨が降り、ハルキをとりかこむ男子生徒たちがハルキを罵倒したあと、その一人がリュックの方に近づいてきた。ハルキのところにリュックを放り投げた。カメムシはあわてて折り畳み傘の中に隠れた。男子生徒たちは、ハルキにリュックを背負わせて「こっちこい」と怒鳴り、道路の脇にあるドブ川にハルキを蹴り落した。リュックの中に水が流れてくるのをカメムシは感じ「僕は泳げない!」と小声でてんぱりながらビニール傘に必死でつかまったが、ハルキはすぐに立ち上がった。男子生徒たちは大笑いしながら「ずっとそこにいろ!」とわめき、去っていった。ハルキはずっと雨に打たれていた。カメムシは傘の中でこわくて震えるのだった。
カメムシはハルキがなぜいじめにあっているのか観察することにした。そして、代々ハルキを守るのだと言い伝えられてきた、この部屋で安全に暮らしてきたカメムシの一族を引き継ぐ者として、使命を全うしなければならないとの気持ちに奮い立っていた。ハルキがなぜ殴られるのか?ハルキを取り囲む男子生徒たちも尾行し、カメムシは数日かけて調査を行ったが、彼らはハルキ以外にも弱そうな生徒をターゲットに「金もってこい」と脅しているのだった。弱そうな生徒のほとんどが金を渡していたが、必ず手渡すたび「これだけか」と言われ威嚇される。金を手渡したあとは殴られずに威嚇だけで済むが、金を渡すのを拒否したり持ってこないと殴られるというのがわかった。ハルキは、そのどちらもだった。「持ってない」と突っぱねていつも殴られる、の繰り返しだった。男子生徒たちを率いるボスのような男が最後に「おいおいそれぐらいにしろ」と制し、ハルキに「言うこと聞いたらもうやめっからよ、金持ってこい」と念を押し、殴られ倒れたハルキを置き去りにするというのが常習となっていた。カメムシは傘の中で深く考えていた。どうしたらいいのか?するとこの部屋で暮らしてきたカメムシの一族が、折り畳み傘にハルキのこれまでの人生を壁画のように絵を描いて伝えていると親から聞いたことを思い出した。それは傘の裏側にあり、雨の日にハルキが傘を開いた日にしか見れない。カメムシはそっと雨の日を待つことにした。しかし、ずっと晴天ばかりの日々でカメムシはじっと待ち続けるのだった。
雨はなかなか降らなかった。カメムシは金の意味がわからなかったが、殴られても断るほど大事なものなかよくわからなかった。しかし、ハルキはリュックを背負いながら、親から預かった金を男子生徒たちに奪われないようにいつも靴底に敷いている靴底シートの底に千円札を入れて、小銭は目立たぬように使い古しの眼鏡ケースの中にボロ布と一緒に入れていた。スーパーマーケットでは赤札のものから選び、親からメモで頼まれていた野菜や肉、魚などを買って家に帰ることが多かった。カメムシはリュックの中の折り畳み傘の中で、じっと聞き耳を立てていた。親はいるのだが、ほとんどハルキと一緒にいることがない。家に帰るとハルキが親の分の食事を作り、家の掃除をし、自分の部屋にもどり寝た後で親が帰ってくる。母親は夜に帰って来る。ハルキが折り畳み傘を家に置いて学校に行った時にカメムシは知ったが、父親はハルキが起きて学校に出かけた後で朝に帰ってきて、ハルキが学校から帰ってくる前に働きに出るようだった。カメムシはハルキが家ではほとんど誰とも話していないことが心配だった。ハルキは一人っ子で、友達もいなかった。高校に入学する前の中学では転校生として来たばかりだったので、中学から同じ高校に進んだ生徒の中にも知り合いだったり、友人になったりした生徒はいなかった。
とある日、ようやく雨が降った。カメムシは折り畳み傘の持ち手の部分から這い出て、ハルキが傘を開いた時に、これまでこの部屋で暮らしてきたカメムシの先祖たちが書き記した壁画のような絵を、折り畳み傘の鉄骨の部分にしがみつきながら傘の内側全体を見上げていた。そこにはカメムシにしか見えない色とりどりの絵が描かれていた。カメムシの寿命はおよそ1年半と言われている。ハルキが16歳になる今、これまで少なくても10匹以上のカメムシがハルキを見守ってきたとのことになる。傘は開いて骨組みを見上げると三角になっているところが6面あるが、6面のうち半分がハルキの1歳から8歳まで、もう半分が9歳から15歳まで描かれており、16歳となる今のことを描こうと思えば描けるよう、空白スペースも空いていた。カメムシは興味津々に丁寧に見ていきたいと思ったが、見る時間はハルキの登校時間と下校時間の、雨が降っている間だけであり、帰りに雨がやんでいたら登校の時にしか傘の内側にある壁画を見ることが出来ない。そこで、詳細に描かれたハルキのこれまでのことの中から、ハルキがいじめにあったこと、そこから立ち直ったことがあったかどうかだけの情報を選んで探してみることにした。カメムシは朝に開いたばかりの新聞の見出しのみを急いで見るように、その情報が描かれていそうなところだけを探して、折り畳み傘の中の鉄骨の部分を東西南北に何度も行き来するのだった。
カメムシは傘の内側にある壁画をみたあと、ハルキが男子生徒たちから殴られるのをなんとか阻止したいと考えたが、どうしていいか全くアイデアが浮かばなかった。しかし、壁画に描いてあった内容は、その時その時によって、ハルキが一生懸命生きてきたことが描かれており、よりそっていたカメムシのハルキに対する愛情がとても伝わってくるような内容が描かれていた。カメムシはハルキが殴られることを阻止するには、他の生き物たちに意見を聞く必要があるとのことを考えた。それはハルキの部屋を出て旅に出ることでもあり、命がけでの旅となるのでカメムシは覚悟しなければならなかった。夜にハルキのリュックの中にある折り畳み傘からカメムシは飛んで、ハルキの寝顔を空中から見た。ハルキの顔には殴られた青いアザもある。カメムシはハルキが健康に楽しく暮らしていけるように勇気を出して旅に出ることにした。すこし蒸し暑い夏日のような梅雨の前に、ハルキは窓を開けて寝ていた。カメムシはその窓から意気揚々と外の世界に旅立った!となる寸前で、網戸の小さな穴に下半身が挟まり、そのまま朝を迎えるまでそのままだった。ハルキはカメムシのいないリュックを背負い学校へ出かけて行った。カメムシは夜通しゆっくり下半身を揺らし、ようやく網戸から外に脱出することが出来た。まずはどんな生き物に聞いてみようか、カメムシはまるであてがなかったが、まずは飛んでみることにした。カメムシはまだ見たことも行ったこともない地面に降り立った。ここから、カメムシの旅が始まる。
カメムシは地面に降り立った。すると蟻が目の前に立っていた。「チッ、まだ生きてんのかよ。死んでたら持って帰れんのによ!」と蟻は吠えた。カメムシは蟻を呼び止め、「人間の子がいじめにあってる。蟻にもいじめはあるの?」と単刀直入に聞いた。蟻は「人間の子なんか助けてどうなる、俺達には関係ねえ」と言って、その場からいなくなろうとした。カメムシはそれでも自分に初めて話しかけてきたカメムシの自分の親兄弟以外の生き物がその蟻だったので、しがみつくようにその蟻のあとをついていった。蟻は歩きながら「俺たちは軍隊みたいに組織で動いてんだ。おめえがついてきて話しかけてきても俺は一切、話さねえからな。ただ様子を見るだけとかそんなのはおめえの勝手だがな、おめえが死んだら俺たちは食い物として俺たちの女王がいる巣におめえを持っていくだけだからよぉ」とやさぐれた口調で話し始めた。カメムシは蟻の言う通り、様子を見るだけにしようとした。が、その蟻にはなぜか話しかけやすくつい質問をしてしまった。「蟻さんは年中ずっと働きづめなの?仕事が終わって家に帰るとかの時間はないの?」と。すると蟻は「隊列にもどる前だから特別に答えてやる。俺たちは年中、ずっと働かされている。だが、交代で休む時間もある。夜の見張りがなきゃな、あの木陰で休んでるぜ」とカメムシに蟻は言った。その木陰には小さな穴が地面に空いていた。「あそこが蟻さんのおうち?」とカメムシは言った。「そうだ、だがあそこには嫁と子がいて俺がいないと驚くから、俺のいない時は絶対に近づくなよ」と蟻は言った。それはつまりその蟻がいるときは来ていいのだとのように受け取ったカメムシは勇気を出して蟻にこう提案した。「家ついて行ってイイですか?」と。蟻は鼻で笑うように「人間の家に砂糖をとりに侵入したとき、そんなTV番組を見てる奴らがいたなあと思い出したぜ。夜だ。夜にこっそり遊びにくるならいいぜ。じゃな、カメムシのこわっぱ。またな!」そう言って、蟻は蟻の隊列にもどっていった。カメムシはこの蟻から学びたいと気持ちが高鳴った。
蟻はその夜、くたくたになって帰ってきた。カメムシは「遊びに来たよ」と言いにくいなあと思いながら蟻の家の目の前の木にしがみついて待っていた。蟻はカメムシに気づくと「おめさん、いつまで木にしがみついてんだい、今日は話を聞きにきたんだろう?」とカメムシを呼んだ。カメムシが喜んで蟻の近くまで羽根をばたつかせながら飛んでいくと、蟻は「おめえがあまり目立つと、餌が近くにあるのに働かねえで遊んでると他の蟻に言われっからよ、目立たねえように静かに歩いてこっちにこい」とぶっきらぼうに言った。カメムシは地面に降り、蟻の言う通り静かに蟻のあとをついていき、蟻が暮らしている穴の中に入った。蟻は眠っている子供とねむかけている嫁を紹介しながら「こいつらも、昼はものすごい働かされててよ、眠いんだ。寝かせててやっててくれ」と言った。蟻はカメムシを奥の部屋に連れて行き、ランプのあかりをつけた。そこには木の葉で作られたギターがいっぱい壁に飾ってあった。「わあ!すげえ!」とカメムシは思わず小声で声を出した。蟻は嬉しそうに「だろ?これは俺のこっそり集めている楽しい趣味なんだよ」と蟻は言った。カメムシが数えてみると、ギターが17本もあった。蟻は「木の葉で自作したんだが、弦だけはキリギリスの村から買わないとだめでな、俺の毎月の小遣いは弦を買うとなくなるんだ。蟻は食料や家や病院もみんな無料だけど、小遣いというか自由に買い物できるような金がほとんど支給されないんだよ」と言った。カメムシは「小遣い以外はみんな無料ってことなの?」と聞いた。蟻は「ああ、そうだよ。小遣いは一家族に配給されるのが月に1,000円ぐらいさ」と答えた。カメムシは「でも他が無料だから生活は成り立つの?」と聞いた。蟻は「いや、蟻全体の食料の収穫量というかな、稼ぎが少ないと分配も少なくなるわけで、規律ばかりで競争が少ないから、ルールは多くなるがさぼる蟻ばかりで生活がよくならないんだよ」と。カメムシは「いじめはない?」と聞くと、蟻は「格差がすごいのさ、誰もいじめとは言わないし、言えないんだがね」と答えた。蟻はそう言うとカメムシの目の前の地面に何かを描き始めるのだった。
「おめえには悪いんだけどよぉ」と蟻は言った。蟻はピラミッドの絵を地面に描いていたのだが、カメムシ、ゲジゲジ、毛虫のたぐいはピラミッドの最下層に描いた。そして上にいけばいくほど女王蟻に喜ばれる食料が描かれていき、ピラミッドの頂点は綺麗な蝶が描かれていた。カメムシは腕を組みながらピラミッドの絵を見て蟻に質問した。「この食料になるのをみんなで探して働いて女王蟻に献上するというのが蟻のお仕事なの?」と尋ねると、蟻は「ざっくり言えばそうだな。でも自分たちの部族の蟻たち以外の蟻も同じように狙ってるから競争が激しいんだ」とため息をつきながら言った。そして、自分たちの巣に保管している食料も狙われないよう見張りを交代でするのがとても厳しいらしく、蟻はありありと本音でカメムシにこう漏らすのだった。「カメムシよ、夜勤の蟻を探すのがまじで大変なんだよ。働くのは大変だが分配性だから蟻全体の高齢化が進行して、働く世代の蟻が忙しく少子化も進んで、夜に見張りをする蟻たちが疲弊して困ったことになっている。ついに定年後の蟻たちにも夜勤をお願いすることになったんだが、老齢となった蟻が夜勤をしている隙を狙って、他の部族の蟻が夜襲に来る。わが部族は恥ずかしい話、配給の小遣いが少ないことに不満をもつ蟻も多くいて、小遣い欲しさに夜勤のシフト表を金で売っちまう蟻もいて、とっても困ったことになってるんだ」と。カメムシは蟻の疲労をねぎらいながら「蟻さんはどんなポジションで働いてるの?」と聞いた。蟻は「俺は第7部隊の隊長とのポジションを与えられてる。だが、隊長なのに部下が全くいない。たった一匹だけの部隊で、わが部族の縄張り全体の偵察を任せられてるんだが、今日はおめえに会ってしまった。いいか、くれぐれも他の蟻の部族にいま話したことについては絶対、言うんじゃないぞ」と言った。カメムシはうなずきながら「僕はハルキの部屋で自由でいたけど、蟻の隊長は大変な毎日を送っているんだなあ・・」と心の中でつぶやいた。蟻はカメムシが遊びに来て、普段は言えない自分の気持ちを話せて、少し嬉しそうだった。カメムシが好きそうな野イチゴのかけらをもってきて、カメムシに手渡しながら蟻は言った。「明日は大きな会議があるんだが、おめえ、参加してみるか?」と。
カメムシは木の幹にしがつきながら、蟻の話を思い出していた。蟻が話す話では、食べ物のピラミッドでも最上級のものは女王蟻が食べるが、それ以外は分配性のはずなのに、女王蟻の側近たちが食料不足の飢饉のための保管が必要だとしながら、側近たちのほうが女王蟻よりもよい食べ物を確保して大豪邸に暮らしているとのうわさや、女王蟻を亡き者にし自分が王になろうとする勢力もあるとのことを蟻は話していた。カメムシは蟻から聞いた会議があるという草むらの中にある広場を抜けて、安全に傍聴できる木を教えてもらい、幹にしがみつきながら会議を待った。蟻は真夜中まで楽しそうに自分に話してくれていたのに、早朝には出勤があるとのことで会議の前の数時間の間も山向こうの遠い谷まで縄張りの偵察に行くんだと話していたが、蟻が来る前に女王蟻の側近たちがやってきて、会議の前にこんな話をしていた。「あの偵察部隊の隊長に任命した蟻が昨夜どこかの蟻に根掘り葉掘り我が国のことを話しているのを他の情報部隊の隊長から聞いた。今日の会議は今後の食料対策についての話だが会議の後半のその他の議題で、その蟻の処分について協議しよう。今回の件は証拠など不要で処分できるものであるから、死刑か追放かでよかろう」と。カメムシは木の幹にしがみつきながら、これからどうしようか悩みに悩んだ。そして、この会場に向かってくる蟻にこのことを伝えようと静かに木の幹から降りて目立たぬところまで移動してから飛び立ち、蟻に伝えに上空から蟻を探した。しかし時はすでに遅く、蟻は捕らえられ、セミの抜け殻で出来た牢の中に入れられ、蟻の軍隊に移送されていた。カメムシはどうしていいかわからず、さっきの木の幹にしがみつき様子を見ることにしたが困った表情で何度もため息をつき、どうにか助ける方法がないかと小声でつぶやいていた。会議が始まった。「皆の衆、静粛に。これから会議を始める」と髭づらの女王蟻の側近が話し始めた。セミの抜け殻の中にいる蟻はうなだれながら妻や子供が心配で、木の幹にいるカメムシになんとか家から家族を逃がしてほしいと声にならない声で必死に目で懇願していた。蟻は死刑を覚悟していたからだ。
カメムシはハルキの部屋に無事に戻った。そこで自分がしでかしたことに恥ずかしさを感じながらすこし赤面していた。が、色は黒いし、赤面しても誰も気づかないので、そっといつもの折り畳み傘の柄の部分に戻ろうとしたが、小声で蟻の声が聞こえた。「ここ、快適だな!これからよろしくな!」と。蟻と蟻の家族もハルキの家の庭に無事に引っ越してきたのである。どういうことになったかというと、もはや蟻の死刑が宣告されるといった直前に、カメムシはしがみついていた幹から会議に参加している蟻の大軍の中に飛び降りた。蟻の大軍が会議を妨害しにきたであろうカメムシを敵視し、攻撃するかどうかの指示を待ったそのときに、カメムシは思い切り踏ん張った。すると生まれて初めてのことだったが、「バフーーー!」といういやな音がして、臭気をぶっぱなし、蟻の大軍は全軍が気絶した。セミの抜け殻の牢の中にいる蟻だけは助かった。カメムシはもっとかっこよく蟻を助けたかった。できれば、自分が力持ちでセミの抜け殻ごと手にもってヘリコプターのように上空に持ち上げて連れ去るとか、映画のようにかっこいい助け方をしたいと思った。絶賛気絶中の蟻の大軍から、裁決をくだそうとした女王蟻の側近を見つけ、カメムシは蟻の側近を揺り起こした。蟻の側近がおびえて目を覚まし、カメムシはドスの効いた低い声でこう告げた。「死刑じゃなく追放だよな」と。蟻の側近は急いで首を縦に振った。その証拠にセミの抜け殻に「追放です」と手書きで決定事項を書いてもらった。カメムシは蟻と蟻の家族にハルキの家の庭を案内しそこで暮らすように話した。蟻と蟻の家族は満面の笑みで喜んだのだった。しかし、これをお読みの方はお気づきかもしれない。カメムシはハルキの部屋の網戸からただ地面に落ちただけなので、追放先も、追放前の場所も、同じハルキの家の庭だった。セミの抜け殻に「追放」と書いてあるものが目印となり、蟻と蟻の家族は、結局これまで住んでいた家から引っ越さずに、蟻の国から完全に追放された状態で暮らせることとなった。蟻は、それだけでとても嬉しかった。カメムシも新しい家族が出来たようで庭によく遊びにいくようになった。
蟻は自由に暮らせるようになった。それまでは蟻の国のため女王蟻に忠誠を尽くさなければならなかったが、生活に必要な最低限の食料の供給はなくなったが、自分で収穫したものは自分や家族のため蓄えることができるようになった。しかし、蟻の国たちは追放となったのでこちらに何かを仕掛けてくることはないが、防衛面での心細さもあった。蟻の天敵たちが周囲から来ても誰も助けてはくれない状況となったため、カメムシには感謝していたが、カメムシがハルキと共に学校に行っている昼間は家から出ないようにし、夜に狩りに出かけ、カメムシには何かあった時には助けにきてほしいと頼んでいた。カメムシも昼はハルキのリュックの中で眠ることができるので、蟻と話せる時間を楽しみに、時々、蟻の狩りに、夜の散歩を楽しむように同行していた。カメムシがハルキと同行している学校の帰り道は、不良の集まりたちがやはりハルキを呼びつけて痛めつけていた。ハルキは屈辱的な言葉を浴びせられながらも、親から預かったお金を大事に守っていた。カメムシはなぜそんなにお金を大事にしているのか、命の方が大事じゃないかと思っていたが、ハルキが父や母から生活費をもらっているが、父や母から独立して暮らしているように思えてならなかった。事実、父と母は離婚しており、ハルキがいるためともに暮らしているように見えるが、家庭内別居のような状態で生活をずらし、父も母も会わないようにしているようだった。ハルキは父と母の食事の買い物を手伝っていた。ハルキはもう気づいていた。父も母もハルキが高校を卒業したらハルキに離婚を打ち明けるとの話をすでに聞いてしまったいたのである。カメムシが、ハルキの書きかけの日記を読んで知り、蟻にそのことを話すと、蟻は泣きながら星を見上げて言った。「カメムシよぉ、つれえなあ、ハルキってやつは。たぶんその金ってのが親からの手紙みてえなもんなんだろう」と。カメムシも泣きながら言った。「どうしたら不良たちの不当ないじめがなくなると思う?」と。蟻は「おめさんが蟻の大軍の中に落っこちてきて屁をぶっぱなしたみたいなことがハルキに出来るんならのぉ。何かねえのか、ハルキには?」と言った。カメムシは星を見上げながら考えあぐねた。ハルキの部屋での同居暮らしの中で、ハルキが不良たちに対抗できる何かとは?その何かが、もしかしたらあれではないか?と心の中によぎるのであった。カメムシは蟻に握手し、帰ろうとした。蟻は言った。「自由は、いいぜ」と。
カメムシは雨の日に折り畳み傘の内側にあるこれまでのハルキの記録を完全熟読することにした。ハルキの父は介護施設で夜勤専門の仕事をしている。ハルキが小学校を卒業する頃にハルキの父から母に離婚を申し出たらしい。原因はギャンブルで、多額に作ってしまった借金でどうにもならなくなり、迷惑をかけたくないからとのことだった。ハルキの母は議員の秘書をしており正義感が強く、仕事柄のことを考えても離婚が妥当と応じることとなったが、親権について、当時フリーターだったハルキの父がほとんどハルキの子育てをしていたため、ハルキの父は子育てのメインをしていた自分に親権を、ハルキの母は経済的な面から自分に親権をとのことから、両者が一歩も譲れず家庭内別居をしながら、しかし借金の返済がハルキにこないようにと母親が親権をとった。父はハルキの子育てを放棄したくなかった。そこでハルキの苗字は父のままとし、ハルキには離婚を伝えず、ハルキが中学1年から高校卒業までの6年は同居との約束をし、生活サイクルをずらし家庭内別居していた。ハルキは母から3万円もらい、父から1万円もらって食材や生活の消耗品を買って生活していた。ハルキは家が狭いので、おおよそのことは自分の部屋まで親の声が聞こえてくるので知っていた。自分は高校を卒業したら「あとは自由に」と言われることも予測していた。そこで、2万円で毎月やりくりをし、親にはきちんと買い物しているように見せるため調理もすべて行い、2万円は将来のため中学の頃から貯金していた。中学生が調理する、ということに抵抗を感じない親だったのは、父も母も自分のことにばかり夢中で父は借金を返すため、母は将来議員になるためと時間を自分にばかり費やしていたからだ。ハルキには味方がなかった。貯金だけが将来の次のステップに必要になるものとの理由から、金を大事にしていた。カメムシは折り畳み傘の内側に書かれている情報を読み、理由を理解したが、悲しくなった。だが、少し羨ましかった。カメムシは生まれたときから傘の中に1匹だったからである。カメムシは思った。ハルキに、不良たちに何か対抗できる強みはないのだろうか、と。いろいろなことを相談できる蟻に、ハルキの「強み」を探すための偵察をお願いできないか。彼なら蟻の国で鍛え上げられた偵察のノウハウがある。カメムシは夜に、蟻のもとへと向かうのだった。
カメムシはこれまでの経緯を蟻に話した。蟻はこころよく引き受け、ハルキの不良たちに対抗できる何かというものについての調査を行った。学校でも家の中でも寝ている時も蟻は調査を行ったが、ハルキに何か対抗できるような何かというものは1カ月もの時間を要してくまなく調査したが何も見当たらなかった。カメムシに蟻が詫びるとカメムシは蟻の調査から1つだけこれまでにないものを見つけて蟻に詳しく聞いた。ハルキは夜中に目が覚めると、わずか数分だけハルキの部屋の隅にある父親からもらったギターを弾いて寝るとのことがあったからだ。「僕は寝ていたけどハルキはギターが弾けるのかい?」とカメムシが尋ねると、蟻は「う~ん。なんかわかんねえがちょっとだけ弾いてすぐ寝てたな」と。カメムシは「ぜんぜん気づかなかった。どのぐらいのペースで弾いてるの?」と聞いた。蟻は「がはは、ほぼ毎日だろ。おめえ相当ねぼすけだな!」と笑った。カメムシはハルキがギターがうまくなって不良たちが一目置く存在になったらいいんではないかとひらめき目を輝かせながら蟻に「ギターうまくなって学校でヒーローになればいいじゃないか」と話してみた。蟻は耳の穴をほじりながら、「あのレベルでは無理だろう、蚊が力尽きて網戸にしがみつくような音にしか聞こえねえ」と答えて笑った。カメムシがあきらめずに地団駄を踏んで「蟻さんも楽器やってるじゃないか!何かいい方法はないの?」と吠えているので、蟻は「仕方ねえなあ。もしかしたらだが、キリギリス族のとこに行けばそのヒントあるかもしれねえ。だが、あそこには行かねえ方が身のためだぞ!」と蟻は答えた。カメムシは「なんでですか?」と質問したが、蟻は渋ってからこう言った。「俺たちは死んだカメムシを捕獲してこいという蟻の国の方針だったが、キリギリスは肉食で昆虫を食べるんだよ。君が食べられちゃうのはいやだな!」と。カメムシは「でも、楽器の弦を買いにキリギリスの村に行くって言ってたじゃないか!それなら蟻も食べられちゃうんじゃないの?」と聞くと、蟻は「キリギリスは幼虫の時は花粉は食べるけど昆虫は食べないんだよ!幼虫が遊んでるところに行って、弦を買いに行ってたの!俺は!」と答えた。カメムシは「キリギリスの幼虫は楽器はうまいの?」と聞くと、蟻は「人間と一緒でよ、幼虫の方が音楽に夢見てるやつらが多いよ。大人になると音楽やめちゃうか、続けてベテランみたいになっちゃうとかだが、メジャーデビューするのはだいたい幼虫ばっかりだ」と。カメムシが「メジャーデビューって何?」と聞くと、蟻は「音楽で飯を食うっていうこと!有名なキリギリスのミュージシャンもたくさんいるんだよ!」と答えた。カメムシはハルキの部屋の折り畳み傘の中にばかりいたので外の世界のことがよくわからなかった。カメムシは聞いた。「幼虫のキリギリスで一番有名なミュージシャンって誰?」と。蟻は「う~ん。ビジュアル系バンドになるが、VIPってバンドのボーカルの通称ビームっていうミュージシャンかもな。でも無理だぞ、世界ツアーとかしてんだから!」と答えた。カメムシは言った。「いや、ハルキくんのため、僕は世界に旅に出る!ビームに会いにいく!」と。そして、網戸から飛び降りようとするので蟻は止めに入った。「やめとけ、この下の庭とかには絶対いねえから!!」と。
DOORSの「ライダーズ・オン・ザ・ストーム」が流れていた。カメムシはヘルメットをかぶり、VIPのバンドのボーカル、ビームを追っていた。「ヘイ、この街道の向こうにあるツアートラックにビームはいるか?」とカメムシは聞いた。蟻の奥さんと子供は「わたしたち、このハイウェイでは見たことも見てないと言うわ、それが今の時代を生き延びる方法だもの」と答えた。カメムシはジッポで煙草に火をつけ、ビームの捜索は難航を極めることを予感した・・・との夢の途中でカメムシは蟻に起こされた。蟻は網戸から転落し、地面でへんなところを打って寝こけているカメムシにこう告げた。「おめさんは、すぐ感化されるところがある!!そのVIPのビームってやつに会っても協力してくれっかどうかはわかんねえだろ~。しかも幼虫のままだったらいいが、成虫になりかけていたら、おめえが食われてしまう可能性だってあんだぞ」と。カメムシは寝ぼけながら「じゃあ、どうすりゃハルキがギターでヒーローになれるってんだい?誰か知恵や経験があるキリギリスの幼虫で知り合いとかはいないの?」と蟻に尋ねた。蟻は「いねえことはねえ!でも、VIPのビームのような有名なミュージシャンでは、ない!」と答えた。カメムシは「何か手がかりになるようなものでもいい、知りたいんだ、ハルキくんが輝けるようになる手がかりを!」と言った。蟻は答えた。「あのな、ムッシュさんっていうギター好きのカナブンがいるんだが、カナブンだったら樹液とか花の蜜とか、果物が好きだからカメムシ嫌いかもしれねえけど、食われることはないだろうし、ムッシュさんに相談してはどうかな」と。カメムシは「ビームさんはいま売れっ子のミュージシャンと聞いたけど、ムッシュさんはギター好き?どんな音楽をしてるの?」と聞いた。蟻は答えた。「ムッシュさんは、全世界にどんな音楽が流行したとしてもけして流されない、そうだな、天然記念物のような感じのミュージシャンだな」と。カメムシはとりあえず雲の上の存在のようなビームではなく、蟻が紹介してくれるムッシュさんというカナブンのミュージシャンを訪ねることにした。どこに住んでいるのか尋ねると、家はなく住所不定とのことだった。「ビームより探すの大変じゃないか?」とカメムシは心の中でつぶやいたが、蟻の話では樹液がよく出る近所の公園の木に、たまにやってきて、しばらく樹液を堪能し満腹でご機嫌になると、その場でギターを弾いて歌いだすが、誰もムッシュさんの歌には興味を示さず、樹液にしか聴衆は興味がなく、むしろうるさがられている光景がシュールで面白い、との話を聞いた。カメムシはムッシュさんが来るまで、樹液の出る木にしがみついて待つことにした。
ムッシュさんは比較的すぐに見つかった。カブトムシが占領しコガネムシが追いやられ、樹液待ちをしているコガネムシに唄を聞かせようと弾き語りを始めるコガネムシがいたが、待機しているコガネムシの離れゆく姿を見て「あ!ムッシュさんだ!」とカメムシは確信した。カメムシが「あなたはムッシュさんですか?」と声をかけるが、ムッシュさんは目をつぶり、弾き語りに没頭しており、返事をまったく返さなかった。彼は自作のこんな歌をうたっていたのだ。
ムッチョ ベラローサ(作詞作曲:ムッシュ)
ああ、せちがらい世の中よ いつも先着順
速いか遅いか 得した損した そればっかだよ
コモエスタセニョール わがふるさとよ
目先のことより よく見ろよ 木々がなくなり
街ができ 森も山も川も 知らずに消える
カンタービレ ムッチョ ベラローサ
カメムシは、”コモエスタセニョール”は”元気ですか?”の意味だと知っていたので、ふるさとに元気ですか?と呼びかけている歌詞だと理解できたが、”カンタービレ ムッチョ ベラローサ”の意味がまったくわからなかった。歌い終えたムッシュさんに質問すると、ムッシュさんは自分の歌に興味を持ってくれたカメムシに喜び、答えた。「カンタービレはイタリア語で”歌うように”という意味で、ムッチョは”ムチムチでマッチョな人”という意味なのさ!”ベラローサ”は”大阪の集合住宅”のことさ!」との説明だったのだが、カメムシはまったく意味がわからなかった。理解できず木に止まろうとし樹液に足を滑らせ、すっころびながらカメムシは言った。「ぜんぜん意味がわからない!なんだそれ!!」と。するとムッシュさんはニヤっと笑いながらサングラスの下の目を輝かせて言った。「かつて俺は・・大阪の集合住宅に住み着いてたことがあって、唄うようにムチムチでマッチョな俺だったんだが、いまは樹液を求め旅を続け、食うに食えない暮らしをしているとのことを、俺なりに哀愁をこめて唄にしたのさ!」と。カメムシは興味がなさそうに樹液でべたべたするのがいやで、ムッシュさんのそばに降り立ち樹液の付いた足を葉で拭こうとしたのだが、ムッシュさんは「もったいない!」とカメムシの足についた樹液を手ですくい、ペロリと舐め「ふむふむ」と言いながらこう言った。「君、そこに座りなさい。君は体が小さいので、樹液をとりにいくのに、ちょうどいいじゃないか~!!」と。カメムシは「え?」と目が点になったが、ムッシュさんはガッツポーズをし、全身で喜びをあらわし、また歌うのだった。
それから無声映画のように時は流れた。カメムシはムッシュさんと打ち解け、あちこちをともに旅した。ムッシュさんの食事のため樹液をとりにいくのはベタベタしてやだったが、ムッシュさんが喜ぶのでカメムシはコツをつかんで木の枝を折って樹液をつけ、カブトムシの間をすりぬけ焼き鳥のつくねのようにムッシュさんに手渡す。ムッシュさんはカメムシがそうしてくれるのも、歌いたくなったときに聴いてくれるにもとても嬉しかった。カメムシはハルキの話をムッシュさんに話し、どうしたら不良たちに立ち向かえるのかを相談した。ムッシュさんはカメムシの話を聞いてハルキの部屋に夜中にカメムシとともに忍び込んでこう言った。「あそこにあるのはムスタングじゃねえか」と。カメムシが「え、ムスタング?」と聞き返すと、カメムシは「部屋に置いてあるあのギターはムスタングっていうギターで、アンプにつなげるとかっこいい音が出るんだ・・」と、ムッシュさんは言った。カメムシは「アンプっていうのはハルキの部屋にないなあ」と言った。すると熟睡していたハルキが目を覚まし、トイレに行った後、ムスタングをかかえて少し弾いて眠りについた。ムッシュさんは小声でカメムシに言った。「あのハルキって子、めちゃめちゃギターうまいじゃないか。誰かに習ったのか」と。カメムシは「誰にも教えられたりしてなくて、独学で覚えたみたいだよ」と。ムッシュさんは「確かにおめえの言うとおり、特技で何かっていったらギターかもしれない。でもな、あれはエレキギターで生音が小さいから、やっぱアンプがないと相手をびっくりさせられないぞ」と言った。カメムシは少しへこみながら「でもハルキはケチだからなあ、すごく節約してるの。どうやったらアンプを手に入れられるだろう」と言った。そこに最近ムッシュさんと仲良しで、置いてけぼりにされた感のある蟻がやってきて、こう言った。「おいおい、おれを忘れてもらっちゃあ困るぜ!人間のギターだのアンプだのはときどき、ゴミ捨て場ってところに捨ててあることがあるだぜ。みんなで手分けして探せば、もしかしたらどこかにあるかもしれねえ。どうだ?やるか?」と。カメムシは「みんなで探すってこと?」と聞くと、蟻の子供が蟻の背中から「ぼくも手伝うよ!」と幼稚園の帽子をかぶって言った。蟻の妻も手伝ってくれることとなった。ムッシュさんはゴミ捨て場をみんなで夜明けにそれぞれ手分けして探すときにこんな考えがよぎった。アンプは重いから、見つかったとしても、カメムシと蟻とコガネムシの自分だけで、ハルキ君の部屋に運べるのだろうか・・と。そんなことを考えながら飛んでいたら、大きなネットにムッシュさんは頭をぶつけた。ついに現実になったんだな、ゴミ捨て場にギターアンプだ!と喜ぶムッシュさんだったが、それはギターアンプのネットではなく、でっかい蜘蛛の巣だった!「やべえ!」とムッシュさんがたじろいだとき、でっかい蜘蛛がムッシュさんの目の前にやってきて、ムッシュさんを蜘蛛の糸であっというまにぐるぐる巻きにしてしまった。カメムシや蟻の家族は、遠いところにあるゴミ捨て場を探索しており、ムッシュさんは大きなピンチに見舞われているのだった。どうする?どうなる?ムッシュさん!?蜘蛛がムッシュさんを食べようとした時、トラックがやってきた。ごみ回収のトラックがやってきて、蜘蛛の巣ごとムッシュさんは運ばれていくのだった。ムッシュさんは蜘蛛の糸にぐるぐる巻きにされながら、初めて乗せられたトラックの荷台で「ドナドナ」を歌っていた。
カメムシたちがハルキのギターアンプ探しをしているうちに、ハルキは部屋でムスタングを弾き続けていた。無心になって、誰かの曲をコピーしようと楽譜を開いて音を拾っていたが、真似するのがつまらなくなって、オリジナルのフレーズを弾きまくっていた。けして上手いとは言えないコードをかき鳴らして数分で弾けるコードがわからなくなるといった程度のギターではあったが、ハルキはギターを弾いている時はとてもいい表情をしていた。ハルキは高校を卒業するまでは、穴倉のなかで暮らすようにおとなしくし、高校を卒業したら家を出て独立しようと考えていた。生きていくためには働かねばならず、近くのたまに通う美容室で「シャンプー担当アルバイト募集」の張り紙を写メで撮って、卒業したら働きながら美容師の資格をとりたいと思っていた。ムスタングを何時間も弾いた後、ハルキはいつものように横になって天井を眺めた。僕はいったい何のため、この長い時間を生きているんだろうと、ハルキは頭の中に浮かぶ、漠然としたむなしさと闘っていた。そして起き上がり「長すぎる物語」というタイトルの歌詞を書いた。ハルキにとっては、初めて書くオリジナルの歌詞だった。その頃、カメムシたちはアンプを探して近所のゴミ捨て場を探索していたが、なかなか見つからず「探偵を雇ったほうがいいんじゃねえか?」との蟻の提案もあり、カメムシも「そうだね、そうしよう」とのこととなった。そこで小さなマッチ箱に住むカメムシの探偵「サスケ」を訪ねた。その探偵は、なんだか遠い山村の村にいる忍者の末裔だったが牧師となったカメムシのサスケの孫で、サヨコという名の探偵が事務所を開いていた。サヨコは鋭い嗅覚を持ち、さまざまな事件を解決してきた。サヨコの探偵事務所に相談に行くと、サヨコは臭いからこのように話した。「あなたがた、ゴミの日にギターアンプを探すというのは依頼として受けるのはOKだけど、その前になんかコガネムシみたいな臭いがあなたがたにあったのに、どんどん薄らいでいく感じもあるけど、それはどゆこと?」とギャル風な口調で聞かれた。カメムシと蟻は驚いて顔を見合わせた。「そういえばムッシュさん、ずっと見ていないなあ」と。そこで、サヨコの腕のお手並み拝見のため「ムッシュさんはどこにいるか調べられますか」と尋ねると、サヨコはカメムシや蟻に付着したムッシュさんの臭いをかいでこう言った。「塩の汗のような臭いがするコガネムシみたいね。このコガネムシはいま、蜘蛛の巣にまかれ、近くに蜘蛛がいるわ。速く助けないとこれ、やばいんじゃない?」と。カメムシは焦って、「ムッシュさんはどこにいるの?」と立ち上がると、サヨコは「依頼するなら早い方がいいわ!」と言った。カメムシと蟻は「する!する!」と立ち上がった。サヨコは突然レオタード姿になった。「なにをしてるの、あなたたたちもこのかっこになりなさいよ!」とサヨコはカメムシと蟻にレオタードを手渡した。カメムシと蟻は恥ずかしさで無言になり、「どうしても着ないとだめですか?」と聞くと、サヨコは「依頼人も協力できなきゃ私は依頼を受けられないわ」と答えた。カメムシと蟻が店内を見渡すと、子供向けのアニメのポスターが探偵事務所の店内にところせましと貼られていた。蟻がカメムシに「ちょっと他の探偵事務所のほうがいいんじゃないの?」と小声で言おうとしたところ、カメムシは従順ですでに全身レオタードを羽織っていた。サヨコは「そうそう、このレオタードを着ると臭いをかなり消せるの。これを着てまずはコガネムシのムッシュさんを助けにいくわよ!」と吠えた。蟻も仕方なくレオタードを羽織ったが、恥ずかしくて外に出るのを躊躇した。蟻はアンプの捜索に協力してくれている蟻の妻と子供には絶対この姿を見せたくなかった。意を決してサヨコとカメムシの後ろについて通りに出たそのとき、蟻の妻と子供に遭遇した。蟻は「違うんだ!」と叫んだが、蟻の妻は子の目を隠し「あっちに探し物があるかもしれないからいきましょう」と悲しそうに声をかけ、遠くへ走り去るのだった。
「さあ、いくわよ!」とサヨコの掛け声とともに、カメムシと蟻は変なポーズをさせられた。サヨコが指導し、馬の姿勢にさせられ、サヨコはカメムシと蟻の背中に乗り、「サヨコさわやかジャンプ!」と言って、朝日のあたる道をサヨコは走り出した。馬の姿勢のまま、カメムシと蟻は「間違えたところに頼んでしまった・・」と小声でうなっていたが、サヨコの走る速度は速く、全速で走らないと間に合わないほどだった。サヨコの嗅覚はすさまじく、無駄なルートは全然なく、コガネムシのムッシュがいる場所まで一直線だったのだが、網戸から網戸をかいくぐり、いろいろな人の家の朝の茶の間を横切った。おじさんがお腹を出してテレビを見ている茶の間をピューンと走り抜けたり、反抗期の青年が親にすごんでいるところの目の前をピューンと走り抜けたり、おじいちゃんおばあちゃんが緑茶を呑んでいる湯呑に3匹とも落ちそうになって「茶柱じゃ!」と言われたり、わずかな時間の間にいろいろな家の茶の間を横切った。そして到着したのが町はずれにあるリサイクルショップだった。サヨコは電信柱に登り、「あそこよ!間違いない!」とリサイクルショップの窓ガラスから見える店内を指さした。カメムシと蟻はぜいぜい息を切らしながら「うわぁ、もうまいった、すこし休みましょう」と言ったが、サヨコは「店内に入る前にあれをするわよ!」と言って聞かない。カメムシと蟻は仕方なく馬の姿勢になり、サヨコは店内に入る前の「サヨコさわやかジャンプ」を決めるのだったが着地は道路にではなく、カメムシと蟻の背中になり、「グキッ」といういやな音がして、カメムシと蟻はうめいた。サヨコは「あらごめんなさい!」と軽やかに言って店内にコガネムシのムッシュさんを助けに入った。ミッションがあると、そこにしか目がいかない仕事人・サヨコである。カメムシと蟻は背中を抑えながら「あれが、伝説の忍者の末裔で牧師になったサスケの孫か・・・」とつぶやいた。店内ではところせましと家具や健康器具や古着などがひしめきあい、奥に楽器が並んでいた。その楽器コーナーに並ぶ前の査定コーナーにあるギターアンプの背面に小さな蜘蛛の巣があり、そこにコガネムシのムッシュさんはミノムシのように蜘蛛の糸でぐるぐる巻きになっていた。サヨコは蜘蛛が食事の前に昼寝をしているのを確認し、目にもとまらぬ速さでコガネムシのムッシュさんを助けようとすると、リサイクルショップの店員の手がサヨコよりも早く伸びてきてこう言った。「なんだ、蜘蛛の巣じゃん。ちょっと掃除機もってきて」と。三匹は衝撃を受けた。掃除機に蜘蛛とコガネムシのムッシュさんが目の前で吸い込まれていく。サヨコは新たな敵を目の前に、サスケゆずりの燃える闘志を燃やし、カメムシと蟻に言った。「もう一度ジャンプするわよ」と。
サヨコとカメムシたちが掃除機と格闘している間に、ハルキは久々に父や母と食事をする場面があった。家の近所のファミレスでだったが、父や母からは「大事な話」として、ハルキがだいたい予想していたようなことを、つまり高校を卒業してからの家族離散の話を改めて聞くのだった。ハルキの父と母は「今度の誕生日は何がほしい?」と話の最後に話題を切り替えてきた。ハルキは心の中で「物をやるから黙れよということか」とつぶやいていたが、いま一番あるといいなと思うものを両親に言った。それは「ギターアンプ」だった。そして、将来の進路を聞かれるとハルキは親にもう頼りたくなかったので「適当に進むから心配いらないよ」と答えるだけだった。彼は近所の美容室で働きながら美容師の免許をとる、それだけしか考えていなかった。ファミレスでの会計は母がした。父は何も言わなかったが、夜勤の仕事は解雇されてしまったような様子があった。福祉の仕事については、新聞では「賃金改善」などのニュースが報じられているが経営の安定化が難しく利用者の介護の判定の低い人や、障害の判定の低い人は単価がどんどん引き下げられる算定のため、ハルキの父に働きたいとの意思があっても出勤できる夜勤の日数がどんどん減り、自然に解雇のような感じになったのだとのことが、ハルキにもうすうす伝わってきていた。ファミレスからの帰り道、父は「最近、運転代行の仕事をするようになって、俺はそっちの方が向いているのかもしれない」とハルキに話した。酔っ払いにからまれ、怪我したような傷がハルキの父の耳の近くにあった。ハルキの母は経済的なことで父を仕事の出来ない人のように話すことが多くあった。それはハルキにとって何か悲しいことのように思えてならなかった。ハルキは家に帰ってから、いくつかの昔から聴いてきた父が教えてくれた昔のレコードをヘッドフォンで聴いていた。父が青春時代によく聴いたという「尾崎豊」のレコードを聴いて、ハルキは涙を浮かべていた。ムスタングのギターをつなげて、ギターアンプから思い切り音を出して暴れてみたいと思った。
さて、その頃サヨコは掃除機を前に大暴れしていた。「さあ、仕切り直しよ!」と言って、馬乗りになったカメムシと蟻の背中にさっそうと立ち上がり、でかい声で「サヨコさわやかジャンプ!」と吠え目にもとまらぬ速さで華麗に空中に飛んでみせたが、リサイクルショップの店員は「なんか今日は虫が多いなあ」と言い、サヨコとカメムシと蟻を掃除機で吸い込んだ。ウィーンという掃除機の音。店員がスイッチをオフにすると店内は静かになるのだった。掃除機の中で全員集合となり、サヨコとカメムシと蟻は、いよいよさらに奥地に入っての救出作戦に挑むのであった。
それから3日が過ぎ、蜘蛛の大軍が車輪のついたギターアンプを糸で引きながら、早朝の道を歩いていた。ギターアンプの上には、サヨコ、カメムシ、蟻、蟻の妻、蟻の子供、そしてコガネムシのムッシュが乗っていた。つまり、救出に成功したのである。この3日間の蜘蛛との格闘をサヨコは振り返っていた。カメムシと蟻、蟻の妻、蟻の子供は疲れ果てて眠っていたが、サヨコとコガネムシのムッシュは起きて会話をしていた。
サヨコ「すごい戦いだったわね」
ムッシュ「ああ、おめえさんはやっぱすげえよ」
そんな会話で回想シーンが始まった。最初に掃除機に吸い込まれたのはサヨコ、カメムシ、そして蟻だったが、最初は蜘蛛にまったく歯が立たなかった。そこでサヨコは蜘蛛の弱点を探り始めたが、異様に脇の臭いが強烈なことに気づいた。サヨコがそのことを指摘すると、蜘蛛はそれまで強かったのに、脇を締めるようになり、強さが半減した。そこで「何かある」と見込んだサヨコは、蜘蛛の脇に近づいて臭いを採取しようと指でつんつんすると、蜘蛛は倒れて悶えて笑い転げ、動けなくなった。サヨコは、蜘蛛が笑いに弱いことを見抜いたのだった。サヨコがみんなにそのことを伝えると、蜘蛛の糸でぐるぐる巻きにされていたムッシュは、自分を救出するために皆に苦労をかけていることに申し訳なさを感じ、蜘蛛を笑わせて降参させようと渾身のだじゃれをぶっこいた。
「ねえ、蜘蛛の親分、聞いてください!蜘蛛の雲隠れ!!」
すると、容赦ないパンチが蜘蛛からムッシュの顔面ど真ん中に飛んできた。
サヨコ「そういうの、効かないからムッシュ、やめたほうがいいわよ!」
そのとき、蟻の奥さんと蟻の子供が、蟻を心配して掃除機の中にやってきた。蟻は驚いた。なぜなら、蟻の奥さんも蟻の子供もレオタードを着ていたからである。
蟻の奥さん「あなたがレオタードが好きだと聞いたので、私たちも着てきました」
蟻の子供「ちょっと恥ずかしいけど、パパと一緒だよ!」
蟻は感激して、蟻の奥さんと蟻の子供のところに駆け寄ろうとする途中で、つまずいて転んでしまった。すると、蟻のレオタードのお尻がビリっと破けた。それを見た蜘蛛は「プッ!」と笑った。カメムシは心の中で「もっとやれ!蟻さん!」と叫んだ。蟻はすかさずレオタードをぴちぴちに伸ばし、マッチョマンのように「どうだ、俺の筋肉は!」と筋肉を蜘蛛に見せびらかした。するとビリッと、今度はさらに胸が破けた。蟻は恥ずかしそうに、何も着ていないにもかかわらず、蜘蛛に「俺の筋肉が黙ってられるのはあと数秒だけだ」と低い声で言った。そして、胸をピクピク動かしながら「どうだ、すんげえだろう??」と蜘蛛の目の前で胸の筋肉を永遠に自慢した。蜘蛛はひっくり返って大笑いし、完全に降参し無抵抗になった。蟻の妻と蟻の子供は、もともと勘違いしがちな性格だったが「お父さん、このためにレオタードを着てたのね!さすが!」と蟻を胴上げしそうな勢いで喜んだ。
ムッシュは介抱され、このミッションは無事に終了した。そして、サヨコは降参した蜘蛛にこう告げた。「あなたね、こんなに迷惑をかけたんだから、私たちにひとつだけ協力してほしいの。このリサイクルショップに運ばれてきたばかりの、ゴミ捨て場にあったギターアンプを、ハルキって子の家の前まで運んでほしいのよ」と。蜘蛛は了解した。そして、カメムシも蜘蛛の前に出てきてこう言った。「僕も君にお願いがある。君のせいでサヨコさんにコガネムシのムッシュさんの救出を依頼しなければならなくなった。だから、サヨコさんへの依頼の謝礼は君に払ってもらうことにする」と。この発言には、そこにいたみんなが驚いた。蟻は「うすうす気づいていたが、カメムシは交渉上手というか、ちゃっかりしてるというか、あざといというか、そういうとこあるなあ」と心の中でつぶやくのだった。蜘蛛は笑わせられることに弱い『弱点』を他に知られたくなかったため、「俺の弱点のことは掃除機の中だけにしてくれ」とつぶやき、カメムシの要求も吞むことにした。
サヨコの依頼の謝礼とは何か?カメムシも蟻も実は確認せず依頼してしまっていたのだった。勝利に酔いしれるサヨコに、カメムシと蟻は尋ねた。「サヨコさん、依頼の謝礼は何ですか?」
それから、蜘蛛の大軍が引っ張る車輪のついたギターアンプの上で、ムッシュはサヨコに静かに尋ねた。
ムッシュ「それで、おめえさんの謝礼ってなんなんだ?」
サヨコは少し微笑みながら答えた。「それはね、ミッションがすべて終わったら言うわ」と。そう言い終えると、彼女は静かに夜空を見上げた。星々が輝く中、どこか遠くを見つめるように、サヨコの目には優しさと少しの寂しさが宿っていた。
その頃、ハルキの家では、父が重そうな大きな箱を抱えて帰ってきた。母がまだ帰宅していない中、ハルキは自室でお気に入りのムスタングギターを弾いていた。父がハルキの部屋のドアをノックすると、ハルキは不思議そうに顔を出した。父は照れくさそうに微笑み、「はい、誕生日プレゼントだ」と言って、その大きな箱を慎重に部屋の前に置いた。
ハルキの目は輝き、胸が高鳴った。「これ…FENDERの…真空管のギターアンプじゃないか!」驚きと喜びが交錯した声が響いた。ネットで毎晩憧れながらも、手に入れるのは無理だと諦めていた夢のギターアンプだった。最近の物価上昇で、以前はただ「高い」という印象の値段だったものが、今ではその倍近くの高値になっていた。ハルキは驚きながら父に尋ねた。「父さん、こんな高価なもの、大丈夫なの?」
父は少し照れながら頭をかき、「ああ、大丈夫だよ。大切に使えよ。でも母さんには、あまり高価なものだとバレないように、普段はカバーをかけておけ」と優しく言った。
ハルキは、嬉しさで心がいっぱいになり、母が帰ってくる前にと急いで箱からギターアンプを取り出し、ムスタングギターをつないで音を鳴らした。その音はまるで、彼の心の中の夢が現実になったかのようだった。「すっげえ、すっげえ、すっげえーーー!」と、ハルキの歓喜の声が家中に響いた。
その夜、父は静かに荷物をまとめて家を出て行った。ハルキは父にちゃんとお別れが言えなかった。いずれこのときがくるとハルキはわかっていたが、父は朝には父の荷物もともにすべてなくなり、別れは突然だった。父がハルキに「やるよ」とは言ってなかったが、ハルキが気に入った父のお下がりのムスタングギターとレコード、レコードプレーヤーは置いて行った。書き残しの手紙などもなかった。父は家を出て目に涙を流しながら引っ越し用に借りたレンタカーを置いている有料駐車場に向かったが、ハルキの満面の笑顔と、あの歓喜の声を聞けたことで、すべてが報われたと感じていた。ハルキの喜びが、父にとっては、何よりの贈り物になったのだ。
ハルキの家に、人目を避けて蜘蛛の大軍がオンボロのギターアンプを引っ張っていく間、蟻はサヨコの知恵によりハルキのいまの状況の調査を進めていた。最高のタイミングに、不自然じゃないタイミングでギターアンプをプレゼントしたかったからである。
蟻の調査によると、ハルキは自分の学校の卒業式に、校庭で思い切りエレキギターを弾きまくるとのことを計画しているとのことがわかった。卒業式の前だと学校に咎められるかもしれないが、卒業証書をもらった直後なら咎められても学校の権限は薄いはずだと、ハルキの部屋の落書き帳に書いてあったことを蟻はサヨコに報告した。それから調査を続けると、ハルキはすでにギターアンプを持っているが、夜中の学校に忍び込み、校舎から電源を引いて、どこでギターを思い切りかき鳴らすか一人で計画を立てている時に、あの不良グループに見つかり、からかわれ始めた。ハルキは父からもらったFENDERの真空管アンプを不良の一人に蹴り飛ばされそうになった時、父と母が離婚すること、父が出て行く前にアンプをくれたこと、そして卒業式にここでギターを思い切りかき鳴らしたいことを涙ながらに不良グループに叫び吠えた。それは、魂からの叫びだった。不良グループはあっけにとらわれ、ボスのような奴一人が鼻で笑ったのだが、他の不良たちは「笑えねえだろ、その話」とボスのような奴を黙らせた。そして、不良の一人がハルキに言うのだった。「俺とこいつ、ベースとドラムやっから、おめえ、死ぬほどギター練習しろよ」と。蟻はそのやりとりを見て、不良の運動靴に踏まれないよう気をつけながらも「よかったのぉ、よかったのぉ、ハルキ」と涙で顔面をぐじゃぐじゃにして泣きまくっていた。
サヨコはその話の報告を聴きながらクールに言った。「つまり、アンプ持って行ってもぜんぜん意味ないじゃん。もうあるんでしょ」と。すると蟻は続けるのだった。「その不良の一人のベースをやる、という奴の家にも調査にいった。そいつは、アンプを持っていないようだった」と。サヨコは「ベースとギターのアンプってそもそも違うでしょ、私たちはハルキにって頑張ってきたんじゃないの?!その不良にこれを渡すと言っても、これギター用だしっ!!」と蟻にヒステリックに言った後、蟻とサヨコは条件反射的に、自分たちがいま馬車みたいに乗っているアンプに何が書かれているかをじっくりのぞき込んだ。そこにはこう書かれてあるのだった。
『BASS AMP』
サヨコと蟻は何も言わず、無言のまま、しばらく蜘蛛の大軍が引っ張るアンプの上で絶句していた。蟻は何かサヨコに話しかける糸口を探していたが、サヨコはブツブツ何か唱えながら考え事をしており、話しかけられるような雰囲気ではなかった。
ムッシュは今回のことをすべて動かしたカメムシが疲れ果てて寝ているそばで、いま出来たばかりの「助けてくれてありがとう」というオリジナルソングを子守唄のように歌っていた。
蟻は今回のことをどうするかカメムシが起きたら相談しようと思うのだった。
その夜、ハルキは夢で異世界に転生する夢を見ていた。今時あるアニメのような夢だなと思いながらハルキは夢の中をうろうろしていた。そのうち夢から覚め、目覚めてまた同じ朝が来るんだろうと思っていた。しかし、夢はなかなかしぶとく長く続き、ハルキが夢の中で出会ったカメムシの不思議な冒険に引き込まれ、異世界で特別な能力を手に入れてしまう。ハルキがいやだいやだと言うのに、モンスターを倒すたびにレベルが上がり、その都度、ハルキの屁の臭いが増していく。ハルキはレベルアップするたび、カメムシの臭いを放つ屁があ出るようになり、その臭いを利用して危険を回避する術を学び、その能力を使って異世界で数々の試練に立ち向かうという夢がずっと続くのだった。自分を成長させてくれるカメムシとの意外な信頼関係が生まれ、共に冒険を進める中で、最後に高校の卒業式のグランドでムスタングのギターを思い切りかき鳴らすシーンでハルキは目が覚めた。ハルキは長い長い夢だったが、なんだか言いようのない爽快感を感じているのだった。
それから、蜘蛛の大軍によりアンプ運びをしてる連中たちに話はもどる。しばらく無言のまま絶句していたサヨコと蟻。アンプの表面に「BASS AMP」と書かれていることが、まるで現実の重みのように二人にのしかかっていた。しかし、突然、蟻は何かを思いついたように目をキラキラと輝かせた。
「サヨコ!」蟻は小さな声で興奮気味にささやいた。「これ、逆にチャンスじゃねえべか?」
「は?」サヨコはまだ考え事から抜け出せない様子で、ぼんやりと返事をする。
「だってさ、ハルキはもうギターアンプ持ってるべ?でもベースの奴にはアンプがねえ。ってことは、俺たちがアンプを渡せば、彼らは本格的にバンドを始められるってことじゃねえのか?」
サヨコはその言葉にピクリと反応し、ゆっくり蟻を見つめた。「なるほど…でも、それでいいの?私たち、ハルキのために動いてたんじゃなかった?」
蟻はしばらく考え込んでから、静かに言った。「うん、最初はそうだったけんどさ、ハルキはもう仲間を見つけたんだろ?なら、俺たちが今できるのは、その仲間たちをサポートすることだと思うんだべ。」
サヨコはため息をついたが、そして、少しだけ微笑んだ。「ふむ…ま、そういう展開もアリか。」
蟻は言った。「蟻は俺だべ・・・・」
そう言って二人はまた無言になり、蜘蛛の大軍がアンプを引っ張り続ける音だけがむなしく周囲に響いていた。しかし、サヨコの中に小さな変化が起こりつつあった。蟻の言葉が彼女の心に染み込んでいく。いつの間にか、ただハルキのために動いていた気持ちが、ハルキとその仲間たちを応援する気持ちへと変わっていたのだ。
やがて、ムッシュが子守唄の演奏を終えると、ふと目を覚ましたカメムシがゆっくりと羽を伸ばしながら、「あれ?ムッシュさん、なんだか静かじゃない?」と声をかけた。
蟻は目覚めたカメムシに気づいてカメムシの目の前に駆け寄り、今回の経緯を一気に説明し、アンプがベース用だったことや、ハルキの仲間たちのことを話した。カメムシはしばらくじっと話を聞いた後、静かに微笑んだ。「いいじゃないか。人を助けるのに理由なんていらないさ。ハルキは仲間を得たんだ。その仲間たちを支えることが、今の俺たちの役目ってことだろ?」
サヨコもそれを聞いて、とうとう大きく頷いた。「そうね、結局はハルキが幸せになれば、それが一番だもの。」
そして彼らは蜘蛛たちとともに、全員一致でベースアンプを「不良」の家に届けることに決めた。 みんな名前を知らないから「不良」と呼ぶことにした。ハルキと不良たちが一緒に音楽を奏でる、その未来を想像するだけで、サヨコも蟻も少しだけ胸が温かくなった。やがて、全員でバンドを組んで音楽を楽しむ日が来るかもしれない。世界がそれに気づく日が来るかもしれない。それを思いながら、彼らは早朝の街を静かに静かに進んでいった。
「ところで、カメムシ」サヨコがふと口を開く。「あの子守唄、悪くなかったわね。」
ムッシュは照れくさそうに笑いながら、「おいおい、急に褒めるなよ。まだまだ改良の余地はあるのさ」と言った。サヨコは「で、なんでカメムシ。なんであんた名前がないの?」と聞く。
カメムシはゆっくり答えた。「僕は生まれた時から、一匹だったからさ」
こうして、小さな虫たちの冒険は、静かに進んでいくのだった。彼らの物語は、不良に命がけでもぎとったアンプを贈呈するという、予想もしなかった方向へ進んでいくのだった。でも、それで良かった。ハルキも、彼の新しい仲間たちも、きっとこの先にもっと大きな物語を音楽で紡いでいくはずなのだから。
蜘蛛の大軍がアンプを引っ張り続ける中、夜は深まり、街の静寂が一層際立っていた。サヨコと蟻はアンプを見つめながら、これが「不良」に渡る瞬間を思い描いていた。
「ところで、どうやって渡すのさ?」サヨコがポツリと聞く。
蟻は少し考えてから、ニヤリと笑った。「こっそり玄関の前に置いてくべよ。不良が目を覚ましたら、そこにドーンとアンプがあるってわけだ。びっくりしておもしれぇべ?」
「ぜんぜん、こっそりじゃないけどね!誰だ、こんなモン置いたのは!ってびっくりするには玄関の前がいいわね!」とサヨコも思わず笑みをこぼした。
不良の家の玄関の前に蜘蛛の大軍が到着する。「これでいいべな?」蟻が小声で確認する。
サヨコは首を傾げながら、蟻に質問した。「門松にする必要ある?」
蟻は、人間のプレゼントの包装の仕方を知らず、竹や雑草でアンプを装飾し、それはどっから見ても『門松』にしか見えなかった。サヨコは人間社会に慣れていたのですぐにそれが門松のようだと認識することが出来たのだった。蜘蛛たちは暗闇に紛れてサヨコの指示に従い、竹や雑草をとっぱらって全てのミッションを終えた。
「さて、塀の上からでもアンプ贈呈の瞬間を見ようか」とサヨコが一言。
一同は静かに塀の上に登った。朝日が昇り始めた頃、みんながこれまでの苦労を思い返し、こんな場面を想像していた。玄関を開ける不良。
「なんだよこれ!ベースアンプ!?おい、誰がこんなもん…」
「いや、これめちゃくちゃ良いヤツじゃん!これでバンド始められるじゃん!」
実際はこうだった。
不良が朝の眠気をこすりながら、いつも通り玄関を開けようとしたその瞬間、扉に「ドゴン!」と大きな衝撃が走った。
「うわっ!」カズマは驚いて一歩後ずさり、転がる黒い物体を見下ろした。
玄関前に倒れ込んでいるのは、見たこともない大きな蜘蛛の巣だらけのアンプで、そこには「BASS AMP」と書かれていた。
「なんだこれ?」と不良はしばらく呆然と見つめていたが、次第に不敵な笑みを浮かべて言った。「俺のファンか?それとも粗大ごみ置き場とここを間違えたか?」と。不良は自信満々にアンプを眺める。「ま、未来の人気者だからな。こういうこともあるか」と。不良は相撲をとるようにアンプを持ち上げ、2階の自分の部屋に運び入れた。大きくて重かったが、力自慢の彼は、まったく苦にせず運び続ける。
「ハルキの奴、ギターアンプは持ってるけど、ベースはなんもなかったもんな。これは俺のバンド人生にうってつけだぜ!」やがて部屋にアンプを置き、不良は腕を組んで自慢げに眺めた。「よし、今日はいい日だ。ファンに感謝しねえとな」と言って、窓を開けて街に向かって「ありがとな!」と一声かけ、ぽそっとこうもつぶやいた。「本当に音でるのかな、これ」と。
サヨコと蟻、蟻の家族、カメムシやムッシュは塀の上で、思わず顔を見合わせて大笑いした。
「よし、ミッション、コンプリートだな!ところでサヨコおめえの今回の謝礼というか、今回の依頼の報酬の請求がねまだねえが、ここで完了だということだべな?」と蟻がぼそっと呟いた。
「ええ、これでハルキもバンドを始めれる。ハルキも仲間たちといい感じにやれそうだし」とサヨコは目に涙を浮かべながら、請求書をカメムシに渡し「お願いします」と言った。
カメムシは請求書をそっと開いた。
そこには「請求額0円、但し、みんなと友人になりたい」と書いてあった。
カメムシはサヨコに大きく頷いた。そして、カメムシは「ハルキの卒業式、そして、その日の校庭でのライブをみんなで見て応援しよう!」と明るく声をかけ、一同は朝日に向かって万歳をしながら大いに歓喜するのだった。しかし、カメムシは、よく理解しているのだった。
カメムシ自身の寿命がもうすぐ近づいていること、卒業式まで命が持つかわからないことを。
それから数日、時が流れた。不良が町はずれの音楽スタジオに重たそうに運んできたベースアンプの音は、あたりを包み込むように鳴り響いた。ハルキと不良のバンド仲間は、初めて楽器を手にしたかのように興奮しながら、ハルキのギターに合わせて轟音を鳴らしていった。不良はベースで誰かと合わせるのとか、アンプから音を出すのが初めてで、やたらとニコニコしながらリズムを刻むのだった。どこから見ても、不良の顔には見えずその表情は少年のようだった。ハルキたちの演奏は初めてなのに少しずつまとまりを見せ、練習は順調に進んでいった。ハルキは演奏しながら、まさか自分にカツアゲをしてきた不良の連中とバンドをしているとのことが、どこか奇想天外でもあり、いつも以上にギターを弾く手に力が入る。大きな音をぶっぱなすと、不良はたじろいで音で返す。それはまったく暴力なしなのに、バンドの音が一つになる瞬間、全員の心が一つになるようで面白かった。
音楽スタジオの片隅では、カメムシが蟻におんぶされながらハルキを見つめていた。
カメムシはハルキを見守るようにと親のカメムシが書き残した手紙を読んだ日から、ずっとハルキを見守り続けていた。高校生になりたてのハルキが両親の喧嘩を聞きながら部屋で泣いていた夜も、YouTubeで好きなバンドの演奏を聴いて歓喜する瞬間も、ハルキの青春時代の素晴らしい一瞬一瞬を知っていた。カメムシはハルキが好きだった。彼の成長をじっと見つめ続ける時間が好きだった。
しかし、カメムシは人間と同じように寿命があり、3年となればかなりの長寿である。カメムシはアンプの捜索の始まりあたりから、その体の衰えを感じ始めていた。日に日に体が重く、動くことが難しくなっていくのを感じていた。サスケの子孫のサヨコが超人的なジャンプを見せて、みんなを驚かせているそばで、カメムシはかつてのように壁を自由に登ることができず、みんなの足手まといにならないよう片隅にじっと身を潜めているだけだ。それでも、ハルキの姿を見るだけで、カメムシの胸には満足感が広がるのだった。蟻は察していた。そして、いつの間にかカメムシではなくサヨコに次の行動を聞くようになっていたのだった。
ハルキはバンド仲間とさわやかな汗を流し、時にはこれまでに見せたこともない笑顔で大笑いしながら、ふとカメムシのいる場所に目をやった。「お前、ずっとそこにいるなぁ」とハルキは言った。カメムシはその言葉に応えることができず、ただ黙って泣いた。ハルキは「バンド名まだじゃない?バンド名考えようぜ!」と不良たちと楽しそうに話し、スタジオを出て行った。
暗くなったカメムシは、蟻の背中でつぶやいた。
「ハルキの卒業式、ぼく、どうしても見たいんだ」
カメムシはその小さな体をささやかに震わせ、蟻は何も言わずカメムシの頭を撫でた。部屋の窓から差し込む光が、カメムシの体を優しく包み込む。カメムシは満足そうに微笑みながら、眠るのだった。卒業式の日まで、自分の命が持つかどうかはわからなかったが、その日を待ちながら、静かに時を過ごそうと夢に見ながら。
そして、蟻はこう願った。「神様、彼らの未来を明るく照らしますように」と。
その頃、サヨコとムッシュは、牧師カメムシのサスケのもとを訪れた。サスケは遠い山村の中にある小さな村にいたたため、サヨコとムッシュは長い旅となったが、やっとサスケと会えての相談だった。カメムシの命が尽きかけていることを察したサヨコは、なんとかその命を長らえさせる方法はないかと祈るような気持ちでサスケに相談を持ちかけた。
「サスケおじいちゃん、カメムシの命を延ばすことはできないの?」サヨコは涙を浮かべ懇願した。サヨコにとってカメムシは特別な存在であり、ひそかに恋心を持っていたため、その終わりを受け入れることがなかなかできずにいたからである。
しかし、サスケはゆっくりと首を振り、重々しい声で答えた。「命を永らえることは難しい。すべての命には終わりがあり、みな神様の被造物なのだ。すべて神さまのお許しによって生まれ、やがて死ぬ。無理に逆らうことはできないのだよ、サヨコ」と。
サヨコはその答えに打ちひしがれたが、それでも何かできることがないかと必死に考え、こうお願いした。「それなら、せめて彼に名前をつけてあげてください。おじいちゃん、その名前で彼が忘れられない存在になるように。」
サスケは静かに目を閉じ、祈りを捧げた。そして祈りの後、静かに言った。「彼の名前は『ハル』にするといい。彼は春のようにハルキの人生を照らし、彼のそばで見守り続け冬に春を告げたような、そんな存在だから。」
その名を聞いた瞬間、サヨコは涙を落とし、「今度、会ったらハルちゃんと呼んであげたい」とサスケの家から帰ることにした。
その頃、ハルキの練習スタジオからの帰り道、蟻はカメムシを背中に背負いながら、ふと思い立ち、カメムシに尋ねた。「なぜおめさんは、ハルキの家を守っているんだ?その理由がずっとおらはわがんねがった」と。
カメムシは蟻の背中でしばらく黙っていたが、やがてぽつりと口を開いた。「それは、僕にもわかんない。でっも僕らの祖先は、あの家のあたりにずっと暮らしていたんだ。それから人が住み着くようになった。最初はカメムシも腹を立てていたようだったけど、人の家はあったかいんだ。僕らカメムシはその間、ハルキの家族たちとともにいるようになって、彼らを見守る役目をするようになったんじゃないかな」と。
蟻は驚いた。「じゃあ、ハルキの家のあたりに住み着いた人間とずっと一緒に?」
「そうだよ。」カメムシはうなずいて、夕暮れの中で小さな声でつぶやいた。
「彼らの中にはすぐにカメムシを追い払う人間もいたけけど、ハルキがこの家の最後の住人になるんじゃないかって、親の書き残した手紙で僕は知るようになったんだ。僕はそれをずっと見守ってきたんだ。でも、もうすぐみんなとお別れなんだな」と。
そんな歴史を知った蟻の道路に映る影は、静かにカメムシを背中に乗せたまま背筋を伸ばして歩き続けていくのだった。そしてカメムシもまた、ハルキが少しでも幸せであるように、最後の日まで彼を見守りたいという強い思いを胸に抱き続けていた。カメムシは静かにその命を閉じようとしながらも、ハルキの卒業式の日を夢見て、穏やかな時を過ごすことにするのだった。
高校の卒業式の途中でハルキと不良たちはトイレにいくふりをしながら校庭に行き機材の設営を始めた。遠くから卒業式の行われている体育館から「蛍の光」が聴こえる。卒業生全員が卒業式という人生の節目に涙をこぼし、教師から「これで卒業式の一切を終えます」とのアナウンスで終わった、まさにその瞬間。校庭でハルキと不良グループは「蛍の光」をギターの爆音から演奏を始めた。夕暮れの光が穏やかに照らす中、卒業生たちが体育館の扉を開けると、ハルキと不良たちがバンドの演奏をしているのだった。教師たちが「おまえたち、やめろ!」と怒鳴り始めるが、校長が「いいから」と静かに教師をなだめた。初めは控えめだった卒業生たちも、「ハルキじゃねえか!」と、バンド演奏に引き込まれ、手拍子が湧き上がる。冷めて帰る生徒たちもいる。高校生たちは騒ぎたい者だけが自由に残り、笑顔が溢れ、この学び舎3年間の青春の最後のひとときを謳歌しようと湧き上がっている。
その校庭の片隅で、サヨコ、ムッシュ、そして蟻が静かに見守っていた。みんなの注目を集めることもなく、ひっそりと大きな岩の上にカメムシが横たわっていた。小さな命は、誰にも気づかれることなく、静かに最後の息を引き取ろうとしていた。
「お別れを言ったのかい、サヨコ?」とムッシュが声をかける。サヨコは首を横に振り、カメムシの頭を静かになでながら「あなたも…卒業だね」と、静かにつぶやいた。
バンド演奏の大爆音とは対照的に、カメムシの周りに、静寂が広がっていた。その小さな体が震えるように息を吸い、そして吐き出す。サヨコの手のひらにそっと手を乗せたカメムシは、最後の力を振り絞るように、かすかな羽音を立て、飛ぼうとした。カメムシはもう目も見えない。
「ハルキくん、幸せそうだよ」と、サヨコは涙を浮かべながらカメムシに言った。蟻がそっとサヨコの肩に手を置き、ムッシュも静かに見守っていた。カメムシの命が終わりを迎えるその瞬間、バンド演奏、周囲の歓声や音楽がそこから遠く遠く、遠ざかっていくかのようだった。
ハルキたちのバンドは、最後の一音を響かせ、演奏を終えた。校庭には拍手が鳴り響く。校長がやってきてマイクをとり「とてもよかった。でもこれからは社会人になるもんもいるんだし、事前に断ってからやってくれよ!俺も楽しかったが!一同、解散!」と言った。みんなが大笑いしながら拍手喝采した。校長も元バンドマンなのであった。それから、その拍手がすっかりなくなり、真夜中、誰も知らない物語がそこにあるのだった。
サヨコとカメムシだけがそこにいた。サヨコは目を閉じ、涙をこぼしながら呟いた。「さよなら、カメムシのハルちゃん。あなたに託されたこと、忘れないよ。」
サヨコは泣いた。名前でカメムシを呼んだのは、それが最初で最後となるのだった。
サヨコの腕の中でカメムシは完全に静かになり、その命は終わりを迎えた。そして、サヨコはハルキの家の庭に蟻やムッシュとともにカメムシを埋葬した。「これから、どうする?」とムッシュは聞いた。サヨコは言った。「ハルキがこの家を出るまで、わたしがハルキを見守るわ。カメムシと約束したの。それまで何か緊急事態があったら、みんなで”サヨコさわやかジャンプ”よ」と。ムッシュと蟻は涙を押し殺しながら「おー!」と小さくガッツポーズを見せるのだった。
サヨコは、カメムシがいつも寝床にしていた折り畳み傘の中にそっと入ってみた。カメムシは折り畳み傘の持ち手の中を住まいとしていたと聞いていたが、闇に包まれた小さな空間の壁にスイッチがあった。静かにスイッチを入れてみると、驚くべき光景がサヨコの目の前に広がった。傘の持ち手の内側には、精巧に取り付けられた小さな機器がずらりと並んでいた。どれも見慣れないが、最新技術を駆使したような機械だ。カメムシがこの狭い空間を自らの手で改修し、ハルキを守るための装置を作り上げていたことに、サヨコは気付いた。
「なんだろう、このボタン・・」サヨコは思わず呟いて押してみた。部屋で熟睡しているハルキの携帯電話のアラームが突然、鳴り出す。ハルキは慌てて止めて「おかしいな、設定してないのに、アラームがこんな時間に鳴るなんて」といぶかしげにつぶやいてまた眠りについた。
傘の持ち手から顔を出したサヨコは、カメムシがただの昆虫ではなく、ハルキを思うあまりにさまざまなことを駆使していたとは。それから数日かけて傘の持ち手の中にあるボタンにどんなものがあるのかサヨコは試用運転をしてみたのだが、ハルキの部屋を掃除してくれる自動掃除機の遠隔操作のレバーや、エアコンの遠隔操作のボタン、そして「緊急用」と書かれた赤いボタンを押すと、ハルキが隠しておきたい雑誌を自動掃除機が自動で見えないところにゴルフでボールを打つようにすばやく隠すとの機能があり、サヨコはあまりの至れり尽くせりぶりにとても驚いた。
カメムシの一途な愛情が、あらゆる角度からハルキの生活を支えていたのだとのことがよくわかった。傘の裏側には、過去のハルキの日常がカメムシの手書きで描かれており、カメムシの親、その祖父よりずっと前からハルキを見守ってきたことがそこに描かれてあった。
カメムシはもうこの世にはいないのに、サヨコはその存在を強く感じていた。折り畳み傘の中のひとつひとつの歴史を示す絵巻物のような絵から、カメムシの深い愛情が感じ取れるのだった。サヨコは雨の日が好きになった。ハルキが傘を開くたび、折り畳み傘の中に描かれた絵を一気に一望できるからである。サヨコはいつも思った。傘が開くと、それはまるで丸い地球のようだった。サヨコは長いカメムシたちのハルキを支える物語を見ながら、傘の中に残された、カメムシの家族たちが守り続けてきたハルキへの優しさ、温もり、思いが、サヨコをあたたかく包み込むのだった。
ハルキを思い続けたカメムシたちの歴史の最後の絵は、「ハルキたちの卒業式のバンド演奏」の絵で終わっていた。これは、あの卒業式の日に、カメムシが死んだとのこともあり、カメムシが空想で描いたに違いないと思うと、サヨコは胸が締め付けられるような感動を覚えるのだった。その絵の下には、最後の最後にヨレヨレの字で、こう書き記されているのだった。
サヨコへ
この手紙を読むとき、僕はもうこの世界にいない。君がいる「未来」というところに僕はいない。それでも、僕がハルキくんを守ってきた歴史を知ってくれて、どんなに僕が嬉しいか、君にとても伝えたくて最後に走り書きをここに残します。
僕は、歴史というのは世界だと思っている。もう会えない僕の親たちのこともこの傘の中の絵を見て僕は感じることができた。僕はただの小さなカメムシ、言葉もなく、ただハルキくんのそばにいることしかできなかった。でも、その毎日は僕にとって何よりも幸せだった。
僕たちカメムシはここに人が住み着いて、あたたかい家で暮らせてきたけれど、人もカメムシも水や空気がなければ生きていけないし、ずっと自然に依存して暮らしてきたけれど、いつからかカメムシはカメムシのことだけ、人は人のことだけ、水や空気のありがたさも、それを作ってくれた神様をも忘れて、今日生きれればそれでいい、そんなふうに日和見になって、それが最善だとばかりに時事のことばかり追うようになっていった。
ハルキくんはいつも優しくて、どんな時でも僕らカメムシを見つけても踏み潰すことなく、そっとしておいてくれたんだ。僕が弱っている時、疲れている時、ハルキくんを見守り続けることが、僕の唯一の安らぎだった。もちろん彼を大切に思っていた親からこんなことを押し付けられるのは嫌だと思ったこともあったけど、それ以上に、ある日を境にハルキくんが僕の心を動かしていたんだ。
ハルキくんが、お父さんとお母さんがお別れするとの話をしたのを聞いた時、ハルキくんは何をしていたと思う?2人の誕生日のプレゼントに、彼は部屋で曲を書いていたんだ。彼はその話を聞いて泣いて、もう曲を書くのをやめてしまった。その曲は、結局、歌われなくなった。でも、その曲は、僕だけが知っている、そして、僕だけが歌える。まるで、ハルキくんと僕だけの秘密みたいに。それって、せつないけど、なんだか幸せなことだと思わないかい?
僕の時間は、終わりを迎えようとしている。君がハルキくんがこの家を出るまで、ハルキくんを見守ると言ってくれて嬉しかった。だから、この手紙に僕の気持ちを込めて書きます。
サヨコ、僕から君への贈り物を受け取ってほしい。隠れている、青いボタンを押してね。
サヨコ、元気でね。
カメムシより
サヨコはカメムシの手紙を読み終え、感動に包まれた。「青いボタンを押してね」という最後の言葉が気になり、周囲をくまなく探してみたが、まったく見つからず、カメムシの用心深さも理解できた。半日かけてやっと見つけた。自分が座っている椅子の真下に小さな青いボタンがひっそりと隠れていたのだった。
「いつ押そうかな、やはり今がいいか…」サヨコは少し迷ったが、好奇心に負けてそのボタンをそっと押した。すると突然、椅子の下からかすかに「プシュッ」という音が響き、傘全体が震え始めた。サヨコは驚き、身を引こうとした瞬間、傘が勢いよく、自動車の免許を取りにきたハルキが、自動車学校の退屈な授業中に居眠りしている最中に、ハルキのカバンの中から勢いよく飛び出て、窓を超え、傘が空中で大きく開いた。そして、傘はパラシュートのようにゆらゆらと空中を舞うのだが、傘の中から大量のカメムシ型の紙吹雪が噴き出し、折り畳み傘の持ち手から顔を出したサヨコの顔にバサバサと降り注いだ。
その時、傘の持ち手に取り付けられていた小さなスピーカーから、懐かしいカメムシの声が流れ出す。「♪ ハルキくんが作った未発表の曲 ♪鼻歌で歌いまーす!」
しかし、流れてきたのは、どこかズレた音程で、カメムシの歌声とともに、なぜかカメムシが歌に合わせて「ブーーーン、ブズズズッ」という羽根の音がリズムとしてバックに入り、曲は予想以上にクオリティの低い録音で演奏されていた。
サヨコは思わず笑いをこらえようとしたが、耐えきれずに突っ込んだ。
「寿命を縮めてまで、これかよーーー!!」と。
音痴なカメムシの歌声と、謎の羽根のリズムに合わせて、傘から次々と飛び出すカメムシ型の紙吹雪たちが、あたかもステージのダンサーのように舞っている。
カメムシの歌う歌詞がかろうじて聞こえたのだが、その内容は
「たんじょう、たんじょう、おたんじょ、おたんじょ」とダミ声でかすかに聞こえるのだが、それは、さすが書きかけの曲。たまに多賀城と聞こえるところもあり、「なんなのこれー!?」とサヨコは涙を流しながら笑い続け、傘の持ち手の中で悶絶していた。
カメムシの歌は最後に一人多重録音されており、「おたんゾウ日おめでとう」と意味がわからない歌詞と、ハモリにならない不協和音のようなハモリで、ブツっという音とともに演奏が終わった。
その後も紙吹雪は傘の中から噴き出し続け、自動車学校の敷地内はカメムシの紙吹雪まみれになり、大変なことになっていた。何も知らずに授業中に寝ぼけていたハルキは謎の紙吹雪を噴き出す折り畳み傘を窓から放り投げたと完全に疑われた、傘の持ち主のハルキが自動車学校の先生にきつく注意を受け、掃除する係になり、「やれやれ」とハルキはホウキとチリトリで敷地内の掃除を始めている。安眠していたのか、何度もあくびをしながら。
「カメムシ…最期にやってくれたわ〜!」
結局、傘はハルキの掃除中もその後も何度も再生を繰り返し、何時間も紙吹雪を噴き出したあと、ようやく静かになった。サヨコは笑い疲れて放心状態。手紙には「元気でね」と書かれていたが、カメムシの望み通り、サヨコはこの日とても元気をもらったのだった。
蟻とムッシュは、ハルキの家の庭で「今度の日曜にでも、多賀城に古墳でも見いくか」と将棋をさしながら楽しそうに語らっているのだった。 (KAMEMUSHI TRIP 完)
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