ラリー船長の少年時代からのエピソードをもとにしたこれまでの道のりを紹介します。
(前書)高校生の頃にオリジナル曲を鼻歌で録音し無謀にもオーディションに応募したことがある。受ける側も相当不憫に思ったのか呼び出しがありギターリストが伴奏をつけてくれた。その時に彼は「ソングライターになりたいなら楽器ができるといい」と言ってくれた。そのおかげで今ギターを弾いてる。とあるギターリストが亡くなるまで投稿していた記事がある。彼は最後までステージに立つことをあきらめず思いを生き生きと書いていた。彼のライブ見たかった。歴史上に名が残らない人であっても大きな影響を与えてくれた人がいる。伴奏をつけてくれたギターリストには会えた時、音楽で感謝を伝えたい。
(新シリーズがスタートしました。SONG WRITTERというタイトルで連載していきたいと思います)沖縄の名護で森を見ていた時、遠くから音楽が流れていた。どこかの民家で真空管ラジオから流れる音楽が響いていた。僕はその瞬間に真空管のラジオが好きになった。それから生まれて初めて買ったレコードを思い出していた。中学生になって間もないころテレビで見た小林旭さんの「熱き心に」、薬師丸ひろ子さんの「紳士同盟」のシングルレコードが欲しくてレコード店にいったのだがそこでレコード店の目立つ棚のところに浜田省吾さんの「ふたりの夏」のシングルレコードが置いてあり、聴いたことはなかったがとても聴きたくなって小遣いギリギリセーフで、同時に3枚購入した。
家に3枚のレコードを持ち帰り、何から聞くかまずは悩んだ。薬師丸ひろ子さん、小林旭さん、浜田省吾さんの順番にすることにした。小林旭さんのラスボス感がすごく、薬師丸ひろ子さんに癒され、小林旭さんにガツンとくらい、浜田省吾さんは最後のお楽しみにとの脳内シュミレーションを僕はたてた。それから薬師丸ひろ子さんのシングル「紳士同盟」に人生初のレコードに針を落とす。すると男の唄が流れてきた。え、えーーー!!!僕はあわててレコードを袋にもどし自転車で遠いレコード店へレシートを持って全集中で走った。するとレコード店の店員が言った。「回転数、間違えたんじゃないか?」
翌朝、気を取り直して薬師丸ひろ子さんの「紳士同盟」を聴いた。回転数を速くしたら、ちゃんと薬師丸ひろ子さんの歌が流れてきて安堵感を覚えた。それが人生初のレコードデビューだった。続いて当時はめちゃくちゃ流行っていた小林旭さんの「熱き心に」を聴いた。なんとなく小林旭さんに自分の父親の理想像を見ていたというか、父親の熱き心というものが知りたい少年の頃の思いもあり、歌詞を食い入るように聴きながら何度も読んでいた。本来ほしいレコードはこの2枚の予定であったが、ジャケ買いした浜田省吾さんの「ふたりの夏」をかける、そのお楽しみの時間がついにやってきたのだった。
「はーい、ご飯ですよ」と、母の声がした。僕は、後ろ髪をひかれる思いで「ふたりの夏」の途中でレコードを止めた。すっかりレコードに心を持っていかれたのであった。ごはんを食べ、読書感想文の宿題として出されていた本「若きウェルテルの悩み」をバッグに放り込んで僕は学校に駆け出した。走ったことで5分の余裕の時間が出来たので、自分で「読書の木」と名付けていた木によじ登り、そこから見える見晴らしのいい塩釜の街に向かって思い切り背伸びをした。そしてさっき聞いた3枚目のレコードを口ずさみながら木の上に立って歌った。「♪ふたりの夏は~」素晴らしい曲に出会い、全身で喜んだ。
授業中、僕の中では授業中ではなく授業宇宙みたいな時間だった。宇宙遊泳。ノートの隙間や答案を答え終えた問題用紙の裏が歌詞のキャンパスとなった。思いついたことをみな走り書きする。日記は書けば書くほど反省文のようになり全く続かなかったが、歌詞は家に帰り拾い集めノートに書くのがとても楽しかった。散文のような歌詞の断片を形にしたくて、絵では模写、習字では写し書きなどの練習をすると聞くが、僕はレコードの洋楽を和訳した歌詞を読んだり、日本の歌謡曲の歌詞を読んでは、感情移入しやすいものを脇に置き、自分ならこう書くというようなトレーニングを自発的に行っていった。
みるみるうちに歌詞が書きたまっていくと僕は嬉しくなった。文化祭で友人たちが僕の歌詞を教室に飾り、展示会をしたいと言ってくれた。僕は嬉しくなり色紙に厳選した歌詞30枚ほどを清書し、友人からイラストもあったほうがよいとのアドバイスもあって、文化祭まで夜中に歌詞を推敲しマッキーのマジックの細い方で清書していった。そして、当日を迎えた。個展を見るような感じでみんなが静かに楽しんでくれるだろうと思っていたのだが、ひそひそ話や「恥ずかしいなぁこれ」「この歌詞だれのこと書いているんだろう」などの感想も聞こえた。そして、状況は思いもよらぬ方向に進むのであった。
文化祭の昼休みに弁当を食べていると、知っている男子生徒が歌詞を壁から外し、大声で校庭に向かって朗読し始めた。僕はとても不快な気持ちになった。なんでそんことをするのか、尋ねた。その男子生徒は「この詩は誰のことだ?校庭の中にいるかもしれないよな。代わりに読んでやるよ!」と言った。僕はすぐさま言った。「そんなに読みたいなら放送部に頼んで学校全体に向かって読んでくれよ。今から放送部、行こうか?」男子生徒はそこで読むのをやめ、色紙を壁に戻した。僕はその時に思った。歌なら、壁に貼られた言葉よりもあちこちに届くはず。これから、この歌詞に歌を作れないだろうか。
それから僕は中古レコード屋に走った。僕の小遣いでも買えるレコードを探すためだ。すると時代はレコードからCDに変わる真っ盛りの時期で、レコードが叩き売りされているような状態だった。とにかくいろいろなレコードが聴きたい。でも今のようにYouTubeで無料で検索し試聴できるなんてことがない時代でもあり、1枚100円!というような段ボールの中を漁ってみても、それがどんな音楽なのかまったくわからなかった。悩みに悩んだあげく、そのころ親しかった友人が好きだと言っていたハウンドドッグとテレビで見ていいなと思った杉山清貴さんのレコードを買った。今度はシングルではなくアルバムデビューである。
やがて中学も卒業間近の頃に友人たちと同じ高校を受験することになった。落ちても受かってもみんなで会えるようにとバンドを組もうということになった。最初は5人集まった。ギターが2人、ベースが1人、ドラムが1人、僕は自分で希望しボーカルを担当した。全員初心者である。音を出すのが手一杯だったり、楽器すらなくて、貸スタジオでレンタル楽器もあるところを探した。数回しか練習していないのにライブをすることになった。持ち曲がなく、僕は思い付きでライブ中、何秒逆立ちができるかを披露した。お客さんで呼ばれたのは友人たちで「俺も何秒出来るか挑戦する!」となり、演奏者以外みんながなぜか壁に向かって逆立ち競争をするという不思議な光景が広がった。まさに青春である。それが僕の初ライブとなった。
もう一人、仲良しの友人がいた。彼はブラスバンドの部長で、キーボードを弾き、今でいえばユニットというのだろうか。二人でオリジナル曲を書こうと週に一度は集まって、詩にオリジナルのメロディをというような創作を試していた。当時彼はイオスというキーボードを持っていた。サンバのような曲の伴奏もプログラミング出来て、僕の鼻歌にさまざまなジャンルの伴奏を作ってくれた。僕はバンドも楽しかったが、このユニットで二人で活動できる!という身軽さは楽しいなあ・・と夢を膨らませていた。バンドは仲間との大騒ぎの楽しさがあったが、創作については達成する楽しさを感じていたからである。
そんなある日、仲良しの友人の練習の日に僕はこんな曲を書いてみたいとラジオで聞いた曲の録音カセットを持って練習しに行った。すると友人の家がない。火事で全焼していたのだった。当時は携帯電話やスマホがなかったので僕はあわてて学校に電話した。友人が無事であること、近くに住む親戚の家に避難している知らせを聞いて安堵した。翌日、彼の転校の話を聞いた。僕は先生に伝言を頼んだ。その夜に彼と待ち合わせることができた。僕は自分の服を段ボールに詰め彼に手渡した。彼は泣きながら演奏したカセットも借りてたレコードも燃えちゃってごめんなと言った。僕は会えなくなってもオリジナル書けるよう頑張ってみるよ、と彼に告げた。その彼とは数十年後に会えた。このことを懐かしく語らえる夜があった。感謝だ。
中学校の卒業式。僕は硬い表情で体育館に立っていた。卒業証書を受け取る時の静寂は病院の待合室のようだった。卒業式の間近は父親との折り合いがとても悪く、何度も家出ばかりしていた。家出はいつもウォークマンでラジオから録音したロックのカセットを聞きながら家を出た。自転車で限界まで走り真夜中に家族の車で追われたこともあった。15歳。ご多分に漏れず反抗期のど真ん中に突入していた。
16歳。高校に入ってから、僕は誰とも話さずヘッドフォンで音楽ばかり聴いていた。隣に似たような同級生がいた。ヘッドフォンから漏れる音で何か激しいロックを聴いている。いつしか廊下で会話するようになり、互いの好きな音楽を紹介しあった。僕はそこでザ・ウィラードを知った。その音楽は衝撃的だった。最初に聴いた曲は「ライトニングスカーレット」。反抗期の僕の心は激しくドライブした。もっと音楽が聴きたい。彼も当時、僕がハマっていた尾崎豊さんの「回帰線」を聴いて衝撃を受けていた。僕はバンドがやりたくて、しょうがなくなっていた。
美容室で髪を切っていた。近所のよく行く美容室にいつもよく語らうやさぐれ店長がいた。バンド活動は高校に入ってから何度か集まりリハーサルをしたが、それぞれが忙しくなり、また、僕も音楽性と言えばおこがましいがさらに激しい音楽がやりたくなりバンドを抜けた。楽器屋のメンバー募集を見ては「ボーカル募集」のバンドに連絡し、武者修行の日を続けていた。スタジオに入るたび、全てごめんねと断られた。僕は歌が下手だった。ひどい時は歌も聴かずに、ごめんね!もあった。高校1年で社会人バンドに入ろうとしたからだろう。僕のぼやきを聞きながら、よく行く美容室のやさぐれ店長は言った。「どんまい、青春を楽しむんだよ!」と。
当時レンタルレコードやレンタルCDは個人経営の店が結構あった。今は大型店、同じ制服の人ばかりとなったが、当時の個人の小さなお店には頭にバンダナ巻いたお兄さんやツーブロックのお姉さんもいた。個人店がゆえ自由がきく点もあり、借りる前に聞きたいと申し出れば応じてくれた。当時はロックばかりではなくユーロビートも非常に多くラインナップにあったが僕はロックばかりに目を向けていた。何度も何度もレコードの試聴を持参する高校生の僕に対し、親切に音楽の助言をしてくれる長髪のバンドマンの方がいた。その方から「これもいいよ、あれもいいよ」と多くの音楽を教えてもらえた。知っている人に聞くのが一番の近道だった。
レンタルレコード店の長髪のバンドマンはいつも「バンドでデビューが決まって明日東京に行くことになったからバイトは今日で終わりなんだ」と僕に言って悲しませ、翌日は「すまん、実は延びたんだ、その話」と言って毎日出勤していた。数か月通って最後に「実家の家業を継ぐことになってさ、おまえにデビューの話するときは現実逃避できて、すげえ楽しかったよ、すまなかったな」と語った。それも「本当かな?」との気持ちが湧いていたが翌日行ってみるともう長髪のバンドマンはお店にはいなくなっていた。本当だったんだな、との実感が湧き、悲しくもあったが夢をもらった気がした。TVではバンドブームが始まり、夜はどのチャンネルをかけてもバンドが大ブームとなっていた。僕もTVにかじりつき、好きなバンドを探した。
17歳。親父とは折り合いが悪かったが、時々、親父の方から歩み寄ってくれることがあった。「今日はおまえの好きな尾崎がTVに出るらしいぞ」と言ってくるので新聞を見ると深夜の最後の欄に2:00尾崎と書いてあった。反抗期だった自分は、高校生になって初めて親父に「ありがとう!」と心から心から感謝した。家に帰り、家のビデオデッキが不調だったためリアルタイムで見るため風呂と晩御飯を速攻で済ませ布団にもぐりこんだ。夜中の1時に目覚まし時計で飛び起きると親父が別室から起きて「おまえの好きな尾崎、おれも拝んでやる!」と言って茶の間に親子で鎮座した。2:00になり番組が始まるとテロップに無残にこの文字が流れた。『ゴルフ尾崎』。親父はゴルフが好きだったので「俺の時間だな」と言った。僕は黙って寝た。
試験勉強もしなければならない時に、僕は部屋でビジュアル系のバンドのライブをTVで見ていた。当時2階に住んでいた僕の部屋に登る階段を誰かがミシッミシッと登る音が聞こえた。「誰?」と警戒すると、近所に住んでいた祖父が上下ステテコ(全身ホワイト)で訪れて「勉強しろ!」と𠮟るのかと思いきや、ともに部屋でビジュアル系のバンドの映像を見ることになった。祖父はすくっと立ち上がり何を言うのか?と思ったら「このバンドは同じ姿勢でばかり、見ていて全然つまらない。こうやって踊りながら歌えばいいのに!」と、踊りだした。それは、盆踊りだった。僕の全く片付いてない部屋で祖父が一人で踊る。僕は砂漠で蜃気楼を見るかのような気持ちになり、祖父が帰ったら「勉強しよう」となぜか観念するのだった。
初めて手にしたギターはヤマハのフォークギターだった。全然弾かずチューニングすらも覚えることなく放置していたことを覚えている。その後、近所のリサイクルショップで得体のしれないエレキギターを購入するが、これもまったく弾かず部屋のオブジェと化していた。その頃はバンドのボーカリストに憧れていて、心の中の妄想のライブでは、ライブ中にギターを構えて弾くふりをしながらステージ上を走り回るのがカッコいいと思っていた。部屋ではデビッドボウイのジギースターダストばかり聴いていた。真夜中に詩ばかり書いて過ごしたが、楽器はまったく弾けなかった。コピーバンドを組んでメンバーの好きなバンドの曲を歌ったりもしたが、追求すればするほど真似のようになるのがなんかいやだな、と違和感を感じていた。
高校でバレーボール大会が開かれた。1クラス1チームで全学年でトーナメントをするという。僕の通う学校は進学よりスポーツで有名だった。誰が選手になるか、との話し合いがあり、背のでかい順から選ばれることになった。僕もその中に選ばれることになったのだがやっかいなことにクラスの中でもかなりこわもての連中ばかりで、みんな顔がこわい。チームなのに緊張しながらバレーボールをしなければならない状況であったが、こわもてが功を奏し相手チームがひるんでしまい、順調に勝ち進んで決勝まであっさり進んだ。僕もこわもてをしながら試合をしていた。決勝でマッチポイントで競り合い、最後の1点で勝つか負けるかという場面となった。相手チームはバレー部の連中たちがたくさんいてとても手ごわい。味方のこわもての一人が転倒し、ねん挫で苦悶しながら退場。とても緊迫感のある中、今まで試合にまったく出てなかった気弱で目立たなかった補欠の選手が「え、ぼ、ぼ、ぼ、ぼ、僕?」と驚きながら登場してサーブを打つことになった。決勝戦。この1点で勝負が決まる、という場面でである。その補欠の選手がサーブを打った。弾丸のように速かった。それが前衛の一番こわもてのチームメイトの後頭部に当たり、瞬時に笛が鳴り、ゲームセットとなった。本来は悔しがるべきだが、補欠の選手は全速で逃げ、後頭部に当たった前衛の選手は鬼のような形相で体育館中を全速で追いかけまわす。全校生徒が大笑いし、敵味方も関係なくコートに倒れて大笑いし、体育館中が爆笑の渦となった。大歓声である。僕はライブがこれぐらい盛り上がったら本当に最高だろうなあとコートで笑い転げながら学んでいた。みんな涙をこぼしながら大笑いの渦となった。伝説の決勝戦となった。
18歳。僕は物憂げな気持ちで高校生活最後の年を迎えていた。親友が高校を中退し、バンドも文化祭に出場しようとしたがメンバーが集まらず親しかったギターリストと一緒にステージに立ったが演奏を制するかのような怒号や野次の声を浴び、何に生きがいを感じて生きていくべきか見失い漂流するような気持ちで高校3年生になった。中退した友人はフリーターとなり、先に大人になったような感じがした。自分は子供のまま取り残されたような、将来に目標を、というものも何に目標を定めるべきか見当もつかなくなっていた。「将来何になりたいのか?」進路指導で聞かれても答えられず、大学に進学、と答えると当時の成績ではとても進学できるような状況ではなかったので「就職か進学、相応に努力しないと無理だろう」と担任の先生は見立てた。やるべきことと、やりたいこと。その前者の壁の向こうに後者があるものなのか。それともやるべきことをやるためにも、やりたいことをやるべきか。僕は自問自答しながらも、次の文化祭にも出たいと思っていた。
まったく気の進まない勉強をしながら、文化祭に出演でリベンジを果たすにはいくつかの難関があった。まず、勉強したくない。メンバーがいない。前回ともに文化祭に出演したメンバーに再出演は断られ、バレーボールで味方の後頭部に弾丸サーブを当てた補欠の選手もギターをやってると聞いたので声をかけたが「ぼ、ぼ、ぼ、僕には無理っす!」と秒殺で断られた。時間をかけメンバーを探していくうちになんとかドラム、ギターは見つかったが、ベースがいない。そこで僕は自分で弾くべく仙台駅に降り立った。今は吉野家になっている建物にあった通販の楽器屋にたどり着き、中古のベースを数千円で購入した。ハリーというメーカーだったと思う。家に帰り生まれて初めてベースを弾いてみた。真っ先に平家物語が思い浮かんだ。ベンベンベンと夜の部屋に響いたからである。「これで文化祭はもらった!」と拳をあげて立ち上がったが、楽器を弾いても派手な音はまったく出ない。それから毎晩ベンベンベンとひたすら鳴らした。近所で犬の散歩をしている人は、平家物語にしか聞こえなかったと思う。メンバーに去られたなら、文化祭で一人平家物語になるのだ、との切迫感を持って練習した。
最近、かねてからの音楽仲間との語らいの中、未成年の頃の懐かしい話になり「浜田省吾、佐野元春、尾崎豊が好きでライブによく行ったが、パンクは好きだったのにライブは怖くて行けなかった」と話す友人がいた。その気持ち、本当に共感できる、と思った。僕もまさにそうだったからだ。当時、ベースを弾いて演奏するのに誰かのライブを見に行って学びたいと高校3年生の僕はチャンスをうかがっていた。出来れば怖いけれどパンクのライブを体験したい。意を決してチケットを入手し、ペンキで落書きだらけの街外れのライブハウスに1人でいったのだが、僕は学校帰りの制服で、周囲は怖そうな感じの革ジャンの方ばかりが地べたに座っており、制服を来てライブ会場入りは僕1人だった。どうする〇康ではないのだが、心の中どうする?どうする?が押し寄せた。僕はトイレに駆け込んだ。何か着替えられるものはないか。そこであろうことか、バッグの中にたまたま応援団のボロボロの上着があり、これなら私服に見える!見ようによってはイケてるかもしれないと制服を脱いで着替えて会場に入った。おりゃー!とダイブしようとしたがパンクの方々によけられる。ダイブが成立しない。僕は結局腕を組んで手拍子をするなどしながらライブを孤高観戦していたのだが、周りの人が距離を置いていることをうっすら感じていた。ライブ終了後「あ!」となったのは、応援団のボロボロの上着の背中に堂々と「高校の応援団のロゴ」が刺繍してあり、ひとり氣志團のような状態を放っていたこと、そしてダイブをしようとも大勢のパンクスによけられた重大な理由もわかった。ものすごい汗の臭いを応援団の上着が放っていたからだ。その臭いは発酵食品の比ではなく、形容するなら「萌え〜」ではなく「もは〜」というものだった。まさにニルバーナの名曲「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」。とはいえ、帰りはライブを制覇した!と、まるで登山を終えたような達成感で鼻歌を歌いながら、家に帰るのだった。
高校最後の文化祭のステージに立っていた。僕はバンドメンバーとともに3~4曲、体育館のステージで演奏した。前の年の文化祭は先輩たちの野次がとても多かったが、すでに自分たちが先輩となっていたので、大きな野次は特になかった。一個下の学年のバンドも声をかけて出演してもらうことができた。後輩のバンドは演奏がとてもよくて、野次というよりも僕らよりずっと黄色い声援が鳴りひびき、体育館中がとても盛り上がった。よかった。後輩たちのバンドが演奏後に大観衆に囲まれてキャーキャーという声援を浴びている時に僕のところに女子学生数名がやってきた。「あの・・」僕はなんて言われるのかドギマギしていたが、言われたのはこうだった。「演奏中にピック落としたので、落とし物だったのでお返しします」そう言って僕の手のひらにピックが返ってきた。演奏している最中のことを振り返る。「今日はみんな、見に来てくれてありがとう!!」そう言って、僕はピックを客席に投げたのであった。それはもらっていいものであるのに、自分の高校ではライブに行く人がもともと少なかったからか意味がぜんぜん伝わらなかった。落とし物として返ってきたピックには、投げる前に書いていた自分のサインが汗まみれになって半分消えていた。仕方ないさと心でつぶやいて楽器をしまって体育館を出ると、バンドメンバーがいた。「やりきったな、おつかれ~!」とメンバーの笑顔があった。バンドっていいもんだなと心から思った。
ここで文章を書いていると自分の人生をナレーションしているような気分になる。ちょっと前にナレ死という言葉が流行ったが、織田信長の本能寺の変などの重要な局面が撮影などされずに冒頭のナレーションだけで「本能寺で織田信長がうたれた」などの解説で終わることをナレ死と呼ばれていた時期があった。ナレ死ではないが、今回はあっという間に高校時代の最終局面「卒業」である。卒業といえば、♪卒業式で泣かないと冷たい人と言われそう~とか(さて誰の唄でしょう?)、♪この支配からのっ!卒業~(これも誰の唄でしょう?)など、様々なメロディが思い浮かんでくるが、僕の卒業式には、先に高校中退していた、高校で最初に出来た親友がラジカセに尾崎豊さんの「卒業」1曲エンドレスのカセットテープを爆音でかけながら、サングラスにアロハシャツで、僕一人のため卒業式に、自分のやめた高校にたった一人で迎えに来てくれた。車ならかっこいいが、徒歩である。しかしながら、すごい勇気だと思う。アメ車よりもでっかい勇気だ。♪あおげば尊しの卒業式の合唱のかなたから、♪先生あなたはかよわき大人の代弁者なのか~!?と、尾崎豊さんの歌詞がしみじみ聴こえるのである。僕はそのような中で無事に卒業証書を受け取り、まさかの大逆転で大学に試験で合格していた。数少なかった高校時代の親友は大学へ行こうが、その後も一生、親友であることは変わらないとの確信があった。なぜか。うまく言葉に出来ないが、どの世代の人たちと話していても時々思うことがある。それぞれの人の青春の記憶は永遠なのかもしれないと思うからだ。さらば高校!!
見出しに大学編、高校編、中学編とつけてみたら、なんだか「ツッパリハイスクールロックンロール」という歌が頭に流れてきた。「登校編」というサブタイトルがあったりしたかな?となぞなぞが頭の中に浮かんでいる。いよいよここから「大学編」がスタートする。「登校編」という言葉が脳裏に浮かんだので、大学への初登校の日を思い出して書いてみる。その日、僕は「俺もいよいよ大学生かぁ」と、雲に登るような気持ちで市営バスに乗っていた。同じバスに、中学時代の友人が乗っており、「おー!久しぶりじゃないか!」と隣の席に座って語らった。互いに「絶対こいつは同じ大学ではない」と思い込んでバスの中で和やかに語らっていたのだが、大学のバス停で同時に降りたとき「あれ?同じ学校?」とほぼ同時に互いの顔を見合わせた。相手からは「苦労して大学合格したが、まさかおめえと同じー!?」と。僕からも「まったく同じ気持ちだぜー!」と。互いに同郷同士でからかいあい、大爆笑。入学式の会場へ向かっていった。これからどんな大学生活が始まるのか、胸を膨らませて入学式に臨んだら、体育館のでかい幕が開いて、開始と同時に、でかい仏像が出てきて驚いた。僕は仏教系の大学だとは知らずに入学していた。座禅の授業もカリキュラムにあり、初日に動いて肩をばしっと叩かれた。ブーンブーンと言いたくなったり、障子に穴をあけて反対側にいる人を笑わせたくなったり、とにかく落ち着きのない新入生であった。
大学1年は春、2年は夏、3年は秋、4年は冬とあの頃から思っていたが、大学1年生はまさに"春"のような季節だった。春とはうららかな春もあるが、春一番と言われるような大風が吹くことがある。僕は大学生活がスタートして、ギターばっかり弾いていた。覚えたてのコードで曲を作るのがとても楽しく新しい曲ができると路上に唄いにいったり、高校時代の親友のおかげでその当時つくったばかりのオリジナル曲のレコーディングを行う機会をいただいていた。カセットテープでのデモが完成し、それを聴いた人から是非バンドメンバーになりたいとの嬉しい申し出もいただき、真冬の勾当台公園でワンマンライブを行ったりした。大学1年の終わりには、東北、北海道、関東を18切符で回りながら旅先で路上演奏をし、スターライトアベニューバンド(ギターボーカル:僕、ベース:ジョリー、ドラムス:ヤマキ)という3人組のバンドで楽しく活動していた。そのうちレコーディングしよう!との機運が高まり、プロデューサーが必要!とのことになった。そして指名したのは、大学でなんだかとても人気者のギターリスト、マッシュだった。マッシュが来るとみんながマッシュ!マッシュ!マッシュ!と掛け声を上げる。しかし僕の印象は、人生の大先輩というような印象を勝手に持っており、マッシュの顔をみると、ステテコの祖父と雰囲気が似ていて、つい「新しい曲が出来たから聞いてください」と祖父に甘えるようにマッシュに会うたび新曲を聞かせていた。マッシュはいつもじっくり聴いてアドバイスをくれた。僕らはマッシュをプロデューサーに、怒涛のレコーディングを開始した。
大学2年生、4年間で言えば"夏"の季節のスタートはレコーディングから開始した。”CROSS ROAD”というデモテープが完成した。いいメンバーと出会った時は化学反応というか、いろいろな展開が生まれる。デモテープを引っさげあちこちでライブをしていったのだが、だんだんバンドサウンドにしていきたいとの思いがあふれてきた。当時は路上演奏でボロボロになったアコースティックギターしかなく、生ドラムと合わせるとギターは遠くで小声でしゃべっているような、しょぼい感じとなり、腕のいいギターリストを入れたいとの話になった。最初はゲスト程度に呼んでいたマッシュに「ギターを弾いてくれませんか(当時は敬語だった)?」と尋ねると「OK!」と言ってくれた。マッシュの最初のフレーズは、ベンチャーズのテケテケテケ・・・という音でエレキブームがバンドの中にやってきた。しかし、大学には春夏秋冬の季節がある。先輩のジョリー(ベース)が就職準備のため脱退が決まると、新たなベースを探す必要に迫られた。マッシュが「おすすめのベーシストがいる」と話した。僕は大学のフォークソング同好会にベーシストに会いに行った。当時アメリカ屋で買ったチェック柄のシャツがお気に入りで、僕の中ではおしゃれなバンドをイメージしつつ「やあ、どうも!僕のバンドに入りませんか~?」と明るく語りかけるつもりでフォークソング同好会の部室に行くと、前髪が長く顔の半分が隠れ、猫背で迷彩柄のコートを着て下を向いてひたすらベースをべべべべべと弾いている男がおり、僕はいったん扉を閉めた。外に出てマッシュに「あの人ずっとベースを弾いてるの?」と聞くと「朝から晩までずっとベース弾いてるんだよ」と。バンド加入について聞いてもらうと「いいっすよ」の返事だったが、ベースに熱中し指から煙が出そうな練習風景だった。それがベースマン・ミートとの出会いだった。その後、バンド名はBAD★TRIPとなった。おしゃれなバンドのイメージは消え果て、無精ひげでマッシュがエレキを弾き、ミートが高速でベースを弾くとドラムはさらに激しくなり、僕はアメリカ屋で買った好青年風のシャツをやめて、練習でTシャツがボロボロになってもそのまま着続けた。ほぼ毎日のように爆音で練習した。バンドがどんどん育っていった。
大学3年生。大学4年間の中ではそろそろ終わりが見え隠れする"秋”の季節の到来だ。正直、大学1年2年は怒涛のように忙しく、これが短期大学や専門学校でのお話であれば、「駆け抜けて青春!」みたいな感じであっという間に終わった学生生活!という感じだったのだろうと思う。大学3年になり、そろそろ進路に悩む時期に周りはなっていたのだが、僕はとにかくバンドに熱中しながら、一方で家族が交通事故に遭い重症ということもあって、年がら年中バイトばかりしていた。土木の仕事、交通量調査、飲食店、映画館、さまざまなところでアルバイトをした。高校時代はバンド・バイク・バイトは禁止!と教師たちに吠えられていたが、この頃はとても自由を感じていた。バイトをたくさんかけもちし疲労困憊の時もあったが、一度バイトしたところから「明日、空いてる?」とオファーが来ると、人に必要とされるのは嬉しいなあと心から思えた。他方、交通事故で重症になった家族は大切な人であり、家族は収入を得ることだけが大事なのではないことがとてもよくわかった。入院している病院の床に新聞紙を引いて寝てからバイト先に行くという日々も長く続いたが、回復を祈っていると心が温かくなった。家族の退院が決まった後、バンドで新潟にライブに行く機会があり、初めて満場のお客さんの上にステージからダイブして歌う経験をした。学業以外はバイト・バンド・バイクの日々ではあったが、僕は他の芸術も知りたいと思い、演劇の公演を観に行った。闇の中3人が1つの箱の周りをまわりながら、正面にきた人が自分の主張を語る。その中に、ひときわキレッキレの動きをしている青年がいた。目がきらっきらしていた。王様ランキングというアニメをみなさんご覧になったことはあるだろうか?その中に主人公の王子に修行をつけるデスパーさんという不思議なキャラがいる。そのデスパーさんにそっくりな感じで、異様な存在感があった。その後、絵画の授業を選考しようと教室を見学に行くと、その青年が教室にいた。話しかけて語らっているうちに彼がキーボードをやっていることを知った。その時、驚いた僕は、もともと口がでっかいから王様ランキングのデスパーではなく兄の冥府の王デスハーの顔をしていたに違いない。低音ボイスで「ライブを見にこないか?」から「ちょっとキーボードをバンドで弾いてみないか?」に会話が進行していった。その男が、クレイズセガワである。
大学4年生。数多く行ったアルバイトの中、特に記憶に残った出来事がある。僕は大学4年間、夏に海水浴場の監視員のアルバイトをしていた。とある朝、僕はクジラの子供を見つけた。そのクジラの子供を生かしたくて、朝から晩までバケツに海水を汲んでかけ続けたことがあった。見物客がたくさんいた。傘でつつく人もいた。TV局が来て撮影だけして帰ったり、アルバイト先も想定外のことでどうすることも出来ずにいた。僕が途方にくれてクジラの子供の隣に倒れこんでいるとサーファーたちがやってきて「海に戻さないか?」と言ってくれた。僕はサーファーたちとともに何十人かでクジラの子供をかついで運んだ。海に返すと一日ずっと砂浜で弱っていたクジラは大きく背中からしぶきをあげた。見えなくなるまで泳いで、途中で少しジャンプした。見知らぬ人たちとその一瞬「バンザ~イ!」と大声で歓声を上げた。このクジラの思い出を大学時代の最後の思い出として書こう、と思っていた。別なタイミングで世の中で騒がれているAIチャットで「〇〇〇の物語を書いて」と入れると勝手にAIが物語を書いてくれる機能があると聞いて、試しに「ラリー船長の物語を書いて」と入力してみた。するとAIがどんどん物語を書き綴った。「ん?これは・・!?」AIが書いた物語は一字一句そのままだが、内容はこうであった。
「ラリーは、小さな漁船の船長として、毎日海に出ていた。彼は、海の生き物や風景に魅了されており、自分の仕事に誇りを持っていた。ある日、彼は、海の中に巨大な影を見つけた。それは、伝説のクジラだった。ラリーは、クジラに近づこうとしたが、クジラは逃げてしまった。ラリーは、クジラを追いかけることに決めた。彼は、自分の漁船を売り払って、大きな船を借りた。そして、クジラを探す旅に出た。ラリーは、世界中の海を渡り歩いた。途中で、様々な冒険や困難に遭遇した。彼は、海賊や嵐や鮫と戦った。彼は、美しい島や珍しい生き物や友好的な人々に出会った。彼は、海の神秘や魅力を深く感じた。しかし、どこに行っても、クジラの姿は見えなかった。ラリーは、だんだんと心が折れていった。彼は、自分の夢が叶うのかどうか疑問に思うようになった。ある夜、ラリーは、船の甲板で空を見上げていた。すると、彼は、星座の一つが動いていることに気づいた。それは、クジラの形をした星座だった。ラリーは、驚いて目をこすったが、星座は消えなかった。むしろ、彼に向かって光を放っていた。ラリーは、星座が自分に何かを伝えようとしていると感じた。彼は、星座の方向に舵を切った。しばらくして、ラリーは、目的地に着いた。そこは、深く静かな海だった。ラリーは、水面に耳を当てて聞いてみた。すると、彼は、心地よい歌声を聞いた。それは、クジラの歌だった。ラリーは、涙がこぼれるのを感じた。彼は、ついにクジラに会えると確信した。ラリーは、潜水服を着て海に飛び込んだ。彼は、水中で目を開けた。すると、彼の目の前に、巨大なクジラが現れた。クジラは、ラリーをじっと見つめていた。ラリーもまた、クジラを見つめ返した。二人の間には言葉が必要なかった。彼らは互いに理解し合っていた。クジラは優しく笑ってから泳ぎ始めました。 そして,ラリーもそれについて行きました。 彼らは,一緒に海の中を自由に遊び回りました。 それから,彼らは,永遠の友情を結びました。」
大学時代は4年間が春夏秋冬のようだった。僕の大学最後のライブは141エルパークで、ラリー船長バンドのメンバーと共に演奏した。大学を卒業した後このブログに書いた時代を原点に、様々な人々との出会いがあった。この物語の最後にふと検索してみたAIが書いた話には「彼らは,一緒に海の中を自由に遊び回りました」とあった。そのクジラとは何かについて考えたが、今ここでこの物語を読んでいるあなたがそのクジラなのかもしれない。何かのきっかけで、ここに辿り着き、読んでくださったことを心から感謝します。”クジラに唄を聴いてほしい”と、僕は新しい曲をこれからも書き続けていきたいと思います。
2023年6月22日 ラリー船長
WELCOME TO RAINBOW CAFE!
Rally Sencho &
Rally Sencho Band
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